東谷暁「予言者 梅棹忠夫」(文春新書)--ー梅棹忠夫の最後の予言

東谷暁「予言者 梅棹忠夫」(文春新書)を読了。

 

予言者 梅棹忠夫 (文春新書)

予言者 梅棹忠夫 (文春新書)

 

1950年代後半から1970年代前半の予言の一部を以下に記す。36歳から50代前半の予言はことごとく当てている。

  • 生態史観による日本文明の位置づけ。技術がもたらす「よりよいくらし」、豊かさが歴史の推進力になる。文明曲線。旭日昇天教の教祖。日本の高度成長を予言。
  • 情報社会論。情報産業論。外胚葉産業の時代。皮膚、感覚器、脳、脊髄などの中枢神経系。農業時代は消化器官中心の内胚葉、工業時代は筋肉や骨格の中胚葉、そして最終段階賭しての情報時代は外胚葉。情報社会の到来を予言。
  • 「妻無用論」で主婦の変化減少を予言。
  • 知的生産の技術。情遊(情報で遊ぶ)。中間層の知的情遊を予言。
  • イスラーム圏の動乱。アラブの名でイスラーム地域を糾合する運動が続く。中洋。国立中東研究所構想。オイルショックを予言。
  • ソ連崩壊を予言。
  • 地球時代という名称でグローバル時代を予言。

梅棹は生態学的な見方で対象を「まるごと」捉えると言う方法で、「思いつき学派」と呼ばれるほど興味のあるものに転身していくが、その特色は「関係が形成する全体性と、関係の変化という二重の視点」と田辺繁治が述べているのは当を得ていると思う。

その梅棹は、晩年には日本人については、悲観論に傾いているようだ。日本人はキバを抜かれた猪つまり豚になるだろうと予言しているのだ。精神のキバとは「志」のことであり、日本人の「志の喪失」を同じ憂いを持つ司馬遼太郎と語り合いたかったと述べている。

この本では、最後の予言として、精神のキバが生えてきて日本人が再び「志のある国民」になれるだろうか、と悲観的な言葉を紹介している。この予言を裏切るために、現在と未来の日本人は「志」を取り戻すことが求められている。それがこの本のメッセージだ。

若い頃から梅棹忠夫とある距離感を持ちながら観察をしてきた著者の見方は、長い時間をかけたものだけに、説得力がある。梅棹を巡る本の中でも「予言者」としてのとらえ方に新味があり、かなりのできだと思う。最後の予言についての考察は、時代のど真ん中に投げた直球で共感する。「現代の志塾」を教育理念に掲げる多摩大も、「志」に焦点をあてた教育に邁進したいと改めて思う。

 

「名言との対話」12月29日。南方熊楠

「すべての現象が関連しあっている」

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日慶応3年4月15日) - 1941年昭和16年)12月29日)は、日本博物学者生物学者(特に菌類学)、民俗学者。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集が刊行された。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した[1]。「歩く百科事典」と呼ばれ、熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

13歳で「動物学」という本をつくり、「宇宙諸体森羅万象」にして、これを見るにますます多く、これを求むればいよいよ繁く、実に涯限あらざるなり」という博物学宣言をしている天才は、17歳で入った大学予備門では、夏目漱石正岡子規と同期だった。

南方熊楠と親交のあった天皇は1929年の和歌山への行幸時に、粘菌や海中生物についての御前講義を行った。熊楠は粘菌の標本をキャラメル箱に入れて献上した。後に天皇はあのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。1962年に再び和歌山を訪れた天皇は、神島を見て「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠んだ。

真言密教の発想を借りて、自然科学から人文学までのさまざまな学問分野を総合する学問モデルをつくり出そうとした、これが世に言う南方マンダラである。

「世界を自分の目で見たい」「僕も是から勉強を積んで、洋行すました其後は降るあめりかを跡に見て、晴日本へ立帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」と言い、若き日に地球上のさまざまな場所を移動した。柳田國男とともに日本の民俗学研究を立ち上げた人物。南方マンダラと呼ばれる思想を深めた人物。日夜、生物採集に没頭した人物。エコロジーという言葉を日本に最初に紹介した人物。、、、。熊楠は知的巨人だった。
近代科学は一つの原因は一つの結果を生むという考え方だが、熊楠は「因果関係は複雑に関連しあっているために、どのような場所にいてもすべての現象と何らかの関係を持つことになる」と述べていて、「今日の科学、因果は分かるが(もしくは分かるべき見込みがあるか)、縁が分からぬ。この縁を研究するのがわれわれの任なり」」。

関係性が世界を作り上げている。すべてが関連しあっている。それを縁というのではないか。