初出勤---ペッパー君と初面会

「名言との対話」1月6日。今西錦司

  • 「君たちがいる。そして、わしがいるではないか。われわれにやれなくて、だれがやるのだ」。
    • ダーウィンの進化論に挑戦し、今西自然学を打ち立てた京都学派の棟梁・今西錦司は、若い頃は万年講師といわれていたように不遇だった。57歳でようやく教授になったが、63歳の定年までわずか6年しかなかった。その今西の弟子であり梅棹人類学を創った梅棹忠夫も万年助教授だったと回顧している。学問に名前がつくような独創的な研究者は遅咲きの人も多い。
    • 今西は山がライフワークでもあった。登山歴は62歳で400山に達していたが、いつか達成しようと夢見ていた「日本五百山」を66歳で達成した。そして岐阜大学学長を退官した71歳の時に日本山岳会会長に就任し山行のペースがあがり「日本千山」を達成するのが76歳である。77歳で文化勲章を受賞。その後も山行は続く。そしてとうとう「日本千五百山」を83歳で達成する。この間7年だった。その後は、数を数えずに楽しみの登山に変え、85歳の山行を最後とした。1902年1月6日が今西が生まれた日だ。
    • ダーウィンは進化を自然現象とみて、生物進化の法則を求めようとした。ところが今西は進化を歴史としてみたから法則性には拘泥していない。種というものには自己同一性(アイデエンティティ)が具わっており、それを維持しながら変わってゆく。ランダムに変異して進化するのではない。環境変化に対応するために、突然変異の頻度を高め、次に現れてくる突然変異を適応の方向に沿うようにして、小刻みに変異を重ねてゆくうちにあたらしい適応型に変わってゆく。そして新しい種にまで変化していくこともある。これが多発突然変異による進化である。ダーウィンのいうような自然淘汰ではない。主体性の進化論である。
    • 今西錦司京都大学探検部の創設期から指導した。ようやく巡ってきた中国東北部内モンゴル高原を分かつ大興安嶺の探検というビッグチャンスに、40歳の天性のリーダーは、この言葉を吐いた。30歳前の森下正明、学生であった梅棹忠夫川喜田二郎、吉良竜夫ら、優れた弟子たちが奮い立った。このとき、大探検プロジェクトは成功を約束されたのだ。
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