「もっと ちゃんと 考えな、あかんで」

「名言との対話」2月12日。司馬遼太郎

  • 「もっと ちゃんと 考えな、あかんで」
    • 774年生まれの空海(「空海の風景」)から1902年の日露戦争(「坂の上の雲」)まで日本の歴史を書き換えた司馬遼太郎の作品の部数は、2005年現在で、「龍馬がゆく」は2125万部、「坂の上の雲」は1475万部、「翔が如く」は1070万部、「街道をゆく」は1051万部、、、という空前絶後の国民作家である。2月12日は司馬遼太郎の命日で、この日の前後に「菜の花忌」という名前でシンポジウムが行われる。
    • 戦後のNHK大河ドラマは、日本人の歴史観を形成していった。原作者で一番多いのは司馬遼太郎だ。日本人の歴史観司馬遼太郎とNHKでつくってきたと言える。司馬の作品は、戦後日本と日本人に誇りを与えた。
    • 東大阪の自宅の邸内に建つ司馬遼太郎記念館を訪問したとき、天井にしみが出て話題になっていた。その形が竜馬に似ているというので、「竜馬がでた」と話題になっていた。
    • 姫路文学館にある司馬遼太郎記念室で司馬遼太郎座右の銘を発見した。「恩無邪」。言葉に邪念がなく、純真な心情を表現しているとう意味の詩経の言葉である。
    • 国民作家と称された司馬遼太郎の実物を一度だけ見たことがある。2003年に梅棹忠夫先生の文化功労者受賞パーティが大阪のホテルであったとき、黒づくめの服装に見事な白髪、そしてあの黒縁の大きな眼鏡といういでたちの司馬遼太郎が強いオーラを放ちながら、会場にいたことを今でも鮮やかに思い出す。
    • 若き日には、あの司馬遼太郎が「俺は、何をしにこの世に生まれて来たのンか、いまだに解っていない男なんや。ほんまや、、。」と語っていて共感を覚える。
    • 「アルミニウム精錬が電力を食って、金属というより電気のカタマリのようなものであるように、小説も、空気をつかんで個体にするようなエネルギーが要ります」と述べている。司馬は体力と気力の衰えた晩年にはエッセイしか書かなくなった。
    • 東大阪八戸ノ里駅の司馬が通った喫茶でコーヒーを飲みながらエッセー集を読むという、ゆったりした、ぜいたくな時間を過ごしていると、あの優しい眼差しの司馬遼太郎が傍らにいるような不思議な柔らかい感覚があった。そして「もっとちゃんと考えな、あかんで」(誰かに言ったことば。記念館で見つけた)という声が聞こえたような気がした。