門井慶喜」「家康、江戸を建てる」

門井慶喜」「家康、江戸を建てる」(祥伝社)を読了。

家康、江戸を建てる

家康、江戸を建てる

江戸、現在の大東京は人工の街である。多くの天才技術者たちがそれぞれの分野で創り上げた総合芸術である。

  • 湿地帯から逃れるために、土木技術で利根川の流れを変える。
  • 純度の高い金貨をつくり、大阪との通貨戦争を勝利する。
  • 膨大な人口を潤すために、江戸へ向かって水源から清水を引く。
  • 伊豆の名石を切り出す名人と石を積みあげる名人でなす江戸城の石垣の物語。
  • 江戸城天守建設をめぐる秀忠の活躍と家康の遠慮。

それぞれの物語が互いに組み合わされて、江戸を形作っていく。
最後に家康は天守閣から四方を覗き、「わしの、街」「、、、われながら、ようやったわい」と心の中で満足する。
永遠に普請中の江戸は成長をやめる日は来ない。槌音が響き続ける。

この本では、江戸という街の成り立ち、地名の由来も面白かった。
水源という意味の井の頭、洪水を防ぐ遊水池の溜池、鷹場であった三鷹、水の通り道の橋であった水道橋、、、、。

徳川家康という地味でな英雄の像に興味を持った。
この人は人生の達人である。

  • 決して急がず、確実を期す。ときにはまわまり道を辞さぬ。
  • 無駄のないやりかたが、家康はもっとも好きである
  • 「へりくだる人間は仕事もへりくだる。おのれを恃め」
  • 「わしは鷹狩りに興じながらも、常に地相を観じておる」
  • ほとんど臆病といえるほどの自制心で陰謀をこらし、戦争をおこない、天下を制するに至ったのが家康の生涯にほかならなかった。
  • 華麗な判断力よりも実直な誠意をおもんじる型の人間だった
  • 「そういう累々たる死体の上にわしはあり、そなたはある。よいか秀忠、この天守は、それらを祀る白御影の墓石じゃ。」-

「名言との対話」3月7日。出光佐三

  • 「愚痴をやめよ。ただちに建設にかかれ。」
    • 出光興産を創業した1885年(明治18年)生まれの出光佐三は3月7日、95年の波乱の人生を閉じた。
    • 本屋大賞を受賞した百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」(講談社)で出光佐三は最近脚光を浴びた。このような人物が日本の石油業界にいたことの幸運を感じずにはられない物語だった。人との出会い(日田重太郎、、)、石油という魔物の商品に着目したこと、戦争など激動の歴史の中で翻弄される主人公、何度も訪れる危機で出会う僥倖、アメリカと日本官僚と同業者とのえんえんたる戦い、家族と呼ぶ社員たちの奮闘、企業よりも日本を優先する思想、お世話になった人たちへの義理堅さ、危機に際し原則と方針を明確に指し示すリーダーシップ、禅僧・仙がいの絵との遭遇と蒐集(月は悟り、指は経典)、丁稚奉公の主人や神戸高商校長の影響、、、、。このような真の日本人が様々な分野と業界にいたのだろう。その日本人が礎となって今日の日本がある。
    • 宗像大社玄界灘沖ノ島の沖津宮、大島の中津宮、内陸の辺津宮、この三社の総称が宗像大社だ。沖ノ島は海の正倉院と呼ばれるほどの豪華な工芸品があった。遣唐使沖ノ島で航海の安全を祈り、復路ではご加護に感謝した。鎌倉時代元寇の時も、玄界灘の守り神である宗像大社が祈りを捧げている。室町時代には宗像氏は50回以上の朝鮮貿易船を出している。明治の日露戦争では、沖ノ島至近の洋上で決戦が行われた。この大社は地元出身の出光佐三が尽力した。
    • 戦後倒産の危機にあったとき、出光佐三が社員全員に向かって発した第一声がこの言葉だった。愚痴は何も生まない。愚痴は同僚を疲弊させ、空気を淀ませる。沈滞した空気を切り裂くのはリーダーの未来を信じる言葉だ。建設の槌音が聞こえる職場は負けることはない。


「名言との対話」3月7日。鳩山一郎

  • 「闘病生活は一つの精神闘争なのである。」
    • 鳩山一郎という人は、ゴルフ、囲碁など趣味も多彩で、それぞれ真剣に向き合っているから何に対しても独特の自分の考えを持っている。戦後の追放の時代には、軽井沢で百姓生活を身につけたように、環境に恬淡と順応しながら捲土重来を期すというところがある。いざ追放解除を間近に控えた時に、脳内出血にみまわれる。そうなると、この病気に向き合って飼いならそうと考え体調をコントロールし現在の鳩山会館に陣取ってついに総理の座を射止める。長い闘病生活では体を労わること以上に精神的に参らないことが重要であると悟る。肉体的の問題というより、精神闘争であるという結論には深く納得できる。政界引退後には、希望や楽しみのなくなった年寄りが長生きするには、よほど人生に対する考え方を変えなければ耐えられるものではないと今日の高齢時代に示唆を与える感慨を述べている。鳩山は3月7日、長逝。
    • 人心には必ず飽きがくるから「政治家は権力の座に長く留まるべきではない」として、大仕事であった日ソ国交回復に挑む前に「日ソ交渉を果たし終えたならば引退しよう」と考え、成功裏に終わった後、総理を辞任した。東条内閣の戦時刑法特例法案に抵抗して都落ちするときもそうだが、出処進退が潔い。人間的な深みに加えた潔さ、それが吉田茂内閣の後を受けて出発したときに起った鳩山ブームの原因だろう