東京女子医大の創設者・吉岡弥生

酒井シズ編「女医吉岡弥生の手紙--愛と至誠に生きる」(NTT出版)を読了。

愛と至誠に生きる : 女医吉岡彌生の手紙

愛と至誠に生きる : 女医吉岡彌生の手紙

先日訪問した東京女子医科大学の創設者が生前書いた書簡を集めた本である。
東京女医学校(29歳)から始まり、東京女医学校校長(36歳)、東京女子医学専門学校(49歳)、そして東京女子医大(1951年。80歳)へと発展を遂げるための精進した偉い女性の考え方がよくわかる。また、この書は候文の形式の名書簡集でもある。手紙の書き方という面からも参考になる。

驚くのは、31歳の時に学生たちの参考に自らの出産を見学させたというエピソードも残っている豪の者であった。

1900年(明治33年)に東京女医学校が開校する。この年は二葉幼稚園、女子英学塾が開学し、翌年には日本女子大学女子美術学校も開校するなど、女子の高等教育の出発となった時期である。
吉岡弥生は、「女子教育」という視点から、看護師、保健師、美容師、栄養などの分野で先陣を切った。

医学関係。

  • 「謹賀新年。庶政一新を望む者は すべからく自己一新を図るべし」
  • 「日本の医学は治療医学を良しとして予防医学を疎かにしたので、、」
  • 「治療医よりも予防医の方がむしろ女医に適しておると思います。」
  • 「私の持論としては女医が結婚するには専門科目を異にすることがよいと思います。」

学校経営の苦労。
「学校騒動も不良教授解職が実行できませんので、何かにつけ不愉快のことはありますが、、」「中に赤の分子がおり種々の不穏の文字を並べたり、説いたりして生徒をを扇動し、、、」「一部左傾分子もあり、、」

人事案件で、相手に病院の責任者を頼む手紙も多い。
「御相談申したいことがございます」「この際あなたに、、」「最も適任と感じますので、就任くだされば好都合と存じます」など。

手紙

  • 時下薫風の候、あすます御清栄に渉らせ慶賀奉り候
  • ようやく秋せいの句季となりまし
  • お暑さ、とんと加わり、
  • いかが御消光でいらっしゃいますかお伺い申し上げます

52歳で遭遇し、第二至誠病院を焼失した関東大震災については「殊に震災当時のことは忘れようにも忘れられず、、、いつまでもいつまでもぞっとする思いがいたします。」

終戦の玉音放送では、「、、嗚咽を禁ずることができませんでした。不忠の軍人、無能の為政者、かかるあで陛下をお苦しめ申し上げること、悲しさと腹立たしさ、身の置き処を知らない境地に入りました。、、、しかし遅きに失したとは言え、国体護持のできますことは何よりのことと諦むるのほかはありません」

手紙は、人柄や書き手の本音がよく出るので、人となりがよく理解できる。
吉岡弥生は誰に対しても率直に、そして丁寧に言葉を選んでおり、温かい人柄を感じさせる。多くの教え子の女医や、大隈重信市川房枝などにも影響を与えたことがよくわかる。


「名言との対話」3月13日。上杉謙信

  • 「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」
    • 戦国の世で北条や武田と争い、天下を狙う出兵の準備中の3月13日に急死する。宿敵武田信玄も、謙信をして「日本無双之名大将」と評していた。
    • 辞世の句「四十九年夢中酔、一生栄耀一杯酒」
    • 遺言「人間四十九年、これ一杯の酒 極楽も地獄もさきはありあけの 月の心にかかる雲なし」
    • 体が小さく、実は女であったという説や、策士であったという説があるが、歴史の中では颯爽とした理想化された謙信像が生命を保っている。
    • 自分を捨て去って必死の境地に入ると、かえって物事がうまくすすむことがある。地位や名誉も捨てる覚悟が大事だということを、この言葉は教えてくれる。