修士論文予備審査会、大学院教授会、インターゼミ

品川キャンパスから、九段サテライトへ。

「名言との対話」4月23日。賀川豊彦

  • 「愛は私の一切である」
    • 日本生活協同組合の初代理事長、戦後1945年には日本協働組合同盟を結成して会長であり生協の創始者ということになるが、それは一つの側面に過ぎない。療養事業、教育事業、政治、平和、労働事業、労働者教育事業、農民事業、農民福音学校事業、農漁村セツルメント、農村振興事業、新聞事業など実に多方面に活動している。そしてそれぞれの事業における立場を書き抜くと、理事長、会長、中央執行委員、顧問、副会長、校長、組合長、社長というように、全て責任者という具合である。4月23日に逝去。
    • こういった賀川豊彦の事績の一部を追うと、もっとも著名で影響力のあり尊敬された人物であることがわかる。それは1935年にノーベル平和賞候補に擬せられたことでもわかる。韓国の李承晩大統領、中国の蒋介石夫人などからも尊敬されていた。「あなたは、多年私がはるかに尊敬を寄せている日本の指導者の一人です」(李承晩)。賀川が詩集を出したとき、与謝野晶子が推薦の言葉を書いていて、賀川の人物がよくわかる。「熱意と、博識と、勇気と、活動とには、全く目覚ましいものがあります。数人の専心努力する所を能く一人で兼ね備へられて居るといふ観があります」(与謝野晶子
    • 多忙な社会改革運動の間を縫って、作家としても活躍する。代表作の「死線を越えて」は、100万部以上という空前のベストセラーになった。展示してある本のテーマをみると、フィクションでは、農村問題8冊、漁村問題4冊、廃娼問題2冊、社会風刺、協働組合、山村、地方都市・政治、開拓、宗教迫害、など実に範囲が広い。代表作は、「死線を越えて」、「一粒の麦」、「空中散歩」、「宇宙の目的」などがしられているが、生涯著作は200冊を超えている。宗教関係58冊、社会思想39冊、文学53冊、翻訳23冊。「死線を越えて」の印税は今の金額にして10億円を越えたが、自らが関わって敗北した神戸労働争議の後始末や日本農民組合、友愛救済所基本金、消費組合設立費用、社会事業などに半分を出している。
    • 京王線上北沢駅から徒歩数分のところにある賀川豊彦記念松沢資料館で「この人は巨ですね」と告げたら「そうです、忘れられた巨人です」という返事が返ってきた。
    • あらゆるものに興味と関心を持って、目についたところの改革に乗り出す直線的な行動力。ひとことでこの人の広大で膨大な仕事を何と表現したらいいのか。やはり「愛」といことになるのだろう。