「中井英夫戦中日記 彼方より」(中井英夫)より

中井英夫
1922年生まれ。
3歳から日記と短歌をつくる。
7歳、江戸川乱歩を耽読。
22歳、参謀本部に配属。
24歳、東大文学部言語学科に復学。
27歳、東大中退。「短歌研究」「日本短歌」編集長。
40歳、「虚無への供物」前半2章までを江戸川乱歩賞に応募するも次席。
42歳、「虚無への供物」を刊行。
52歳、第2回泉鏡花文学賞
71最、死去。

「短歌研究」五十首詠特選の第一回の中城ふみ子のデビュー作「乳房喪失」の原題は「冬の花火−−ある乳癌患者のうた」であり、第二回の寺山修司の「チェホフ祭」の原題は「父還せ」だった。いずれも「短歌研究」の編集人であった中井が一人で決めたものである。

「もゆる限りはひとに与える乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず」と詠んだ前衛短歌の中城ふみ子のことは渡辺淳一冬の花火」に詳しい。

江戸川乱歩に読んでもらいたい一心で10年の歳月をかけて摩訶不思議な「虚無への供物」という作品を完成させた。

江戸川乱歩への手紙から。「虚無への供物」完成の自信をうかがわせる。

  • 後編ではようやく、現実と寸分隙の無い形での非現実世界の犯罪を、そして、あらゆる探偵小説の約束を生かしながら結末ではそれとは違う何かを僅かばかりでもお眼にかけれるかと考えております。

小説について。

  • 小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない。

短歌について。

  • 何度でもいおう、自分の生活を、そこに起こった現象を過信するべきではない。そこに働いている、眼に見えぬ意味を探りとることだけが詩人の仕事だと。
  • この世の中に、まだまだ未知の不可思議が隠されており、それを自分の言葉で捉える喜びがなくて、なんで短歌を作る甲斐があろうというものではないだろうか。
  • もともと作歌自自身が、「ささいなことにこだわ」って、それを輝く宝石に変える仕事の筈である。、、、小さな魔法−−−作者の手がふれる時はじめて、それをまっていたように輝き出す、それが作歌の秘密であろう。
  • その歌の「何もない美しさ」であろう。、、、一見、本当に何もないごとく見えるそこには、ただ光だけが充ちている、そのような歌こそ、、、真に人々の愛唱してやまぬ歌となり得る筈である。

中井英夫戦中日記 彼方より」(中井英夫河出書房新社)を読了。

中井英夫戦中日記 彼方より 完全版

中井英夫戦中日記 彼方より 完全版

第二次大戦中で学徒動員された世代の中井は市ヶ谷の参謀本部勤務となる。いわば戦争遂行の中枢にいながら、満たされぬ勉強意欲と反戦の日記を書き続ける。思いの丈を綴った日記では同じ年の山田風太郎日記と双璧である。多くの人は戦争の前線には喜んでいったのではない。そういう時代の空気もわかる。「学生の凡ゆる希望も今ここに断たれた」、、。

  • 日本は愛しよう。併し今その日本を動かす資本主義と軍国主義を私は愛さない。
  • 八月を終わる。併し食堂で昔と大差のない食事をしていると未だ未だ余裕のあることを感じる。
  • 軍閥は、、臭気ぷんぷんたる、資本主義と手を結び、南方に帝国主義的な進駐を開始するに到った昭和十六年某日よりの行動は、革命の日もっとも指弾し全面的に責任を問ふ「べき醜悪なる事実である。
  • 理念の字句の美麗さと食ふものがろくにない国民生活の惨めさとばかりが滑稽に並んでいる。
  • 大いなる未来を思いてねむれどもさびしき星は空に光れり
  • かうした無理な戦争をしている以上、、
  • そこにのたうつ、ミリタリズムの上にまたがっている太った、安手なリベラリズムの親玉たち。
  • 兵器はでたらめだし、、
  • 日ソ開戦。、、、かうして、日本は確実に滅びの門をくぐった。、、唯ひとつ惜しいのは、折角めざめてきた日本人自身でこの邪宗(邪宗的国家主義)をくつがえせないことだ。

1971年「公評」3月号の抄録のまえがき。

  • 戦後二十五年を経て何より驚かされるのは、私たちいわゆる戦中派の年代が、誰も彼も屠所の羊さながら、権力の命じるまま御両親様宛の遺書をしたため、従容として死についたと思われているらしいことで、、もうそんな神話や英雄伝説が出来上がってはたまらない。
  • 学徒出陣を国のため君のためと心底思いこんでいた人間は、まったく少数の異端者だったことをあきらかにしておかなければならない。そしてそのくせ、兵隊はいやだという発言を誰ひとりなし得なかったことも確かなので、戦中派の戦後の沈黙は、かかってその恥にあるといっていい。

1971年「彼方より 中井英夫初期作品集」のまえがきより。

  • 中学三年の冬に、南京陥落で祝賀の提灯行列が行われた夜、とめどもなく他人の国へ攻めこむことがなんだって祝うに値するのだろうと密かに考え始めてから、ひどい憂鬱症にかかっていた。

1971年「増補新装 彼方より」の「巻末小記」より。

  • 世界の大勢についに一度も眼を向けず、あきらかな侵略戦争を聖戦と言い変える欺瞞に渾身の憎悪を覚えなかったのだろうか。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「名言との対話」4月25日。石橋湛山

  • 「本を読んだら、そこに書いてあることを絶えず実際の問題に当てはめ、自己の思考力を訓練し、学問を実際に応用する術を体得しなければならない」
    • 石橋湛山(1884-1973年)という政治家は、総理大臣の椅子を病気によって71日という短い期間で潔く退くという見事な出処進退と、日本の進むべき道として「小日本主義」を唱えたことで知られている。湛山は72歳で総理になり、亡くなる前年に「石橋湛山全集」15巻を完結させ、4月25日に88歳で大往生した。
    • 組織、国歌、イデオロギーから自由であり、人間第一、個人第一の思想がリベラリズムである。
    • 石橋総理の国民へのメッセージは「国民諸君、私は諸君を楽にすることはできない。もう一汗かいてもらわねばならない。湛山の政治に安楽を期待してもらっては困る。」であった。
    • 本を読んだら、理論を学んだら、実際の問題にあてはめてみるのが真贋を見分ける一番いい方法だ。適用できなければ、理論を疑おう。理論とはモデルのことだが、そのモデルが応用範囲が広ければ大理論だ。狭い範囲しか提供できなければ小さな理論だ。石橋湛山という人物はマスコミ時代からそういう勉強法を採用していたのだろう。だから、政治家になってもそのまま通用する経済理論を持っていたのだ。