「徳川家康−−将軍家蔵書からみるその生涯」展

竹橋の国立公文書館で「徳川家康−−将軍家蔵書からみるその生涯」展が開催中だ。
家康が1616年に死去してから、没後400年にあたることから企画された。
この国立公文書館は、家康が江戸城に創設した文庫、後に紅葉山文庫と呼ばれる蔵書も引き継いでいる。

この企画展では、「いくさ人、家康」、「秀吉と家康」、「天下人への道」などではなく、最近関心を深めている家康の内政と外交について注意を払って勉強することにした。

征夷大将軍

  • 1603年に家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。この将軍任官には室町幕府最後の将軍・足利義昭の遺言だったという説がある。信長や秀吉も将軍職を望んだが、足利義昭が存命中は補任できずに、信長は右大臣、秀吉は関白に補任された。義昭が大和国で牢人をしていたときに家康が扶助し室町幕府の重宝を譲渡された。また義昭は1597年に死去するに当たって家康が将軍職を相続するよう遺言があったと「当代記」に記されている。

ライバルへの対処。

  • 寺領寄進状・社領寄進状を発給し、寺社と神社に対し、旧領を安堵し、動揺を抑えている。
  • 「御触書」(吉宗が編集を命じた。全51冊)。
  • 朱印船貿易の開始。

文教政策。

大阪冬の陣・夏の陣

  • 70歳、二条城の秀頼との会見。「秀頼はかしこき人なり。中々人の下知など受くべき様子にあらず」。秀頼が15歳から20歳までのうちに天下を治めるに足る器量であれば、家康が秀頼に天下と、秀吉から贈られた「馬印」を返す約束があり、この誓紙に血判し秀吉の棺に入れた。(片桐家秘記)
  • 夏の陣:真田信繁の出城・真田丸。真田隊が家康本陣に突入。
  • 秀吉「一度攻めた後、和議を結び、和議の条件として堀を埋めさせ、その後再度攻めれば良」と家康に大阪城の攻略法を語った。家康はそのとおりに実行(「武辺雑記」)

家康の神号。明神か、権現か。

徳川家康は、深謀遠慮をもって、幕府の礎を築いた。
鎌倉幕府を開いた源頼朝が「このたびのことは天下の草創なり」と言ったように、天下を草創したのだ。その一端がこの展示でわかった。
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「名言との対話」5月2日。レオナルド・ダ・ヴィンチ

  • 「「幸福」が来たら、ためらわず前髪をつかめ、うしろは禿げているからね。」
    • 音楽家(リラ奏者)、都市計画者、余興係、軍事技師、水利工事監督者、画家、彫刻家、建築家、天文学者、物理学者など様々の能力と知識を有した「万能の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチ(1427-1504年)は、イタリアの寒村ダ・ヴィンチ村に生まれた私生児だ。5月1日に永眠。
    • 「智恵は経験の娘である」というダ・ヴィンチには名言が多い。「その理論が経験によって確証されないあの思索家たちの教訓を避けよ」「経験の弟子レオナルド・ヴィンチ」「上手に歩むものはころぶこと稀である」「友人は陰で咎めて、おもてでほめよ」「はじめる人は必ずしも守る人ではない」「星の定まれるものは右顧左眄しない」「工夫するのは主人の仕事、実行するのは召使の行いである」
    • 「万能の人」と言われるルネッサンスの申し子ダ・ヴィンチは、自らのことを「無学の人」と呼んでいたのには驚いた。当時の学問言語であるラテン語の正規教育を受けなかったことをそう呼んだのだが、机上の学問、受け売りの知識は往々にして知性を曇らせると考えていた。500年前に生きたダ・ヴィンチは、「自然」を観察することと、自らの「経験」から導きだされる知識が重要であると言っている。
    • 「あらゆるものは、他のあらゆるものと関連する」というダ・ヴィンチ。その万能の秘密は、自身の経験と自ら編み出した関係学にあるのではないか。
    • 幸福の女神には後ろ髪がない。幸運が走り去るスピードが速いから、躊躇し見逃したらそれでおしまいだ。ためらわず一瞬で前髪を掴むには、あらかじめの準備と鍛えた動体視力が必要だと思う。