池内記「亡き人ヘ のレクイエム」−−追悼文というペンによる肖像画

池内記「亡き人ヘノレクイエム」(みすず書房)を読了。

亡き人へのレクイエム

亡き人へのレクイエム

「ペンによる肖像画」というPRに惹かれて購入。

新聞や雑誌から、死去を告げられ、書いた追悼文に加筆したもので、28人との交友を回顧し、人物の肖像に仕上げた本だ。
著者がみた、その人物の本質をきっちりととらえて書いた、と後書きで述べている。

  • 木田元「「いやな男」のいやなところを指摘しながら、同時にその人物の大きさ、天才生をきちんと伝えるなど、なかなかできないことなのだ。他人の悪口を言うとき、おのずと語りテrの人となりとスケールが出てしまうのである」
  • 森毅「森さんは死んだかもしれないが、いなくなったわけではないだろう。人は逝っても言葉は残るからだ」
  • 小沢昭一「そのウンチク、その見方、考え方、さらにその語り方。すべてがそっくり「名人とは何か」の答えになっているのではないか。」
  • 米原万里「とびきり自分に正直で勇気あるこの女性は、あきらかにあるべき未来の女性を先どりしていた」
  • 赤瀬川源平「たえず、「素」(もと)に戻って考える人は、おのずと時流を突き破っており、こころならずも時の人になる。大いなる過激派の宿命というものだ」」
  • 児玉清「おつき合いいただいたのは、ほんの数年なのに、したしくこの人の一代記に立ち会った気がするのは、どうしてだろう?」
  • 高峯秀子「ほぼ四半世紀を退くことのできない緊張を強いられる場で、おそろしくまっとうに生き、あざやかに身を消した。アッパレな女がいたものである。」

追悼文を書くことは、その人物の生涯全体を眺め、その人の本質を描き、後に遺すということだろう。

「名言との対話」5月11日。萩原朔太郎

  • 「幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とは、それの反対を記憶している人々である」
    • 1886−1942年。大正-昭和時代前期の詩人。明治19年11月1日生まれ。父は医師。大正2年北原白秋主宰の「朱欒(ザンボア)」に詩を発表し,同誌を通じて室生犀星(むろう-さいせい)と生涯の親交をむすぶ。第1詩集「月に吠える」,第2詩集「青猫」で口語自由詩を完成させた。昭和17年5月11日死去。57歳。群馬県出身。前橋中学卒。作品はほかに詩集「純情小曲集」、アフォリズム集「新しき欲情」など。
    • 15歳で鳳晶子(与謝野晶子)の歌に接し熱病に犯され、16歳で初めて短歌をつくる。さまざまな青年の悩みは、作歌という活動によって昇華されていく。そして詩人になっていく。
    • 詩の目的は、「感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである」と朔太郎は言っている。
    • 21歳五高(熊本)英文科を落第、22歳六高(岡山)独法科退学、25歳慶応大学予科入学、26歳京都帝大選科受験失敗という経歴をみると、何か世間におさまりきれないものを感じる。「どんなに真面目な仕事をしていても、遊戯に熱している為時ほどには人を真面目にし得ない」という朔太郎の故郷の前橋での生活を記念館で眺めると、写真、音楽、書物のデザインとマルチアーチストだった。やはり、一筋に修行するというタイプではなかったようだ。
    • 幸福か不幸かは、客観的に推し量れるものではない。性格というか、心の持ち方というか、そういう主観に大きく左右される。つまり下から登っていって来し方を眺めその高さに満足するか、なかなか行き着かない頂上との距離に不満を抱え嘆息するかという態度にかかっている。