「国吉康雄」展−−アメリカ在住の敵性外国人画家の苦悩

横浜そごう美術館で開催中の「国吉康雄」展。

アメリカで最も評価された画家の一人。
日露戦争による国家財政の窮乏(国家予算の60倍の借金)から政府は口べらしのための移民政策を推進する。それに乗っかかって1906年国吉康雄(1889-1953年)は16歳でカナダ、そしてアメリカへわたる。

鉄道の掃除夫、果樹園の季節労働者、ホテルのボーイ、そして一時はパイロットを目指すなどの苦労をしながら、奨学金をもらいいくつかの芸術学校で絵の勉強を続ける。
「教育を受ける機会を与えてくれた国アメリカで、アメリカオリジナルの絵を生み出して描いてやろうと決める」

1924年の排日移民法でアメリカ市民となる道が閉ざされ、外国人居住者という身分になる。1941年の太平洋戦争勃発で、今度は「敵性外国人」となる。こういった流れの中で、国吉の立場は微妙になっていく。
国吉はこの戦争の責任は日本の軍部にあるとし、民主主義国家アメリカの側に立って積極的に発言する。アメリカは国吉に敵・日本人を描くという使命を与える。
平和を訴えれば「敵国人」と非難され、芸術家の権利を叫べば「社会主義者」と言われる。そういう中で国吉が描いた作品は賞を受賞するが、「ジャップに賞を与えた」という批判にもさらされる。

国吉が尊敬していたフランスの藤田嗣治(1886-1968年)は、第二次世界大戦が勃発すると日本に帰国し、戦争画の第一人者として戦時の日本画壇を牽引した。国吉と藤田の姿は対照的だ。二人とも祖国日本からは理解されない苦悩を背負っている。

「私は自分の女性はこうあるべきだと夢想しているユニバーサル・ウーマンを描いているのだ」そのために国吉が行ったことは、世界中に暮らすすべての女性の肌の色を混ぜ合わせたようだ。多民族国家アメリカを具体化しようとしたのであろう。

岡山出身の国吉康雄の絵は、瀬戸内海の直島のベネッセハウスミュージアムで観ることができる。福武総一郎のコレクションだ。
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「名言との対話」6月13日。宮本武蔵

  • 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」
    • 江戸時代初期の剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
    • 岡山の蔵資料館。宮本武蔵は13歳から60余度の真剣勝負を行い1度もその利を失わなかった。21歳の時に一乗寺下り松で吉岡一族に勝つ。巌流島での佐々木小次郎との決闘は29歳の時だった。その後祖国を巡遊、二天一流を完成させる。晩年は肥後熊本家に士官し、58歳のときに兵法三十五箇条、62歳では有名な「五輪書」を著した。武蔵は教養があり優れた絵や書を残している。剣禅一如。文武両道の人であった。剣豪という人たちの中で、武蔵は静かにこの世から去った珍しい人だった。「独行道」では、「我事において後悔せず」という有名な言葉を掲げている。展示されている絵は実に見事な出来栄えだった。
    • 吉川英治は昭和10年から4年にわたって朝日新聞に連載した「宮本武蔵」では、剣禅一如の道を歩む新しい武蔵を書いた。この連載は、求道、克己、そして絶え間ない向上心がテーマであり、人生の書として人気を博した
    • 3年で鍛、30年近くで錬、という計算になる。刀造りでは最初の硬さをつくる段階を鍛といい、焼き入れで柔軟性をつけることを錬という。練り(ねり)によって柔軟性を身につけた名刀になる。鍛錬には、卒業・修了がある修業と、終わりのない修行がある。継続しながら磨いていくのは「修行」だ。
    • 人間として鍛と錬を重ね、いっぱしの名刀になるには30年の月日が必要ということだ。強く柔らかい人物になれるのは、50才前後であると考えたい。