宮田律「宗教・民族・石油−−−中東イスラム紛争の構造」

リレー講座。
宮田律「宗教・民族・石油−−−中東イスラム紛争の構造」

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「名言との対話」6月23日。荻野吟子。

  • 「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ。」
    • 。1851年生まれ、!913年永眠。享年63歳。日本初の女医として有名な人である。この人の人生はまことに凄まじい。6月23日、永眠。
    • 18歳、稲村貫一郎と結婚。両宜塾で松本萬年に学ぶ。(貫一郎は若くして名主に。埼玉県議会副議長。実業家としても大成)。19歳、夫から淋病を移され離婚し、大学東校付属病院に入院。子供を産めない体に。診察の羞恥屈辱感から、女性が女性を診るべきだと、女医を目指す決心をする。24歳、東京女子師範学校(お茶の水女子大)第一期生として入学、卒業。28歳、私立医学校の好寿院に入学、31歳で卒業。男装して受講。抜群の成績。31歳、医術開業試験嘆願書を、東京府、東京都、埼玉県に提出する。女性には認められないとしていずれも却下される。33歳、ようやく受験が許され前期試験に合格、翌年後期試験合格。女医第一号。ようやく鉄の扉が開く。35歳、本郷湯島に医院を開業。産婦人科。本郷教会で海老名弾正から洗礼。東京婦人矯風会に参加、後に風俗部長。36歳、大日本婦人衛生会に参画。翌々年明治女学校教師校医。舎監。40歳、熊本県の志方之善27歳と結婚。同志社の学生。「志方と一緒に神の道を進みます」45歳、北海道での夫のキリスト教理想郷建設に協力。トミを養女に。46歳、医院を開業。淑徳婦人会会長。婦人解放運動に先駆。54歳、夫病死。57歳、北海道を引き揚げ、東京都向島に医院を開業。(北海道瀬棚町に記念館)。吉岡弥生は医院にも足を運び吟子の影響を強く受けた。63歳、永眠。
    • 「女医になる。きっと女医になってやる。きっとなる。きっとなってみかえしてやる」
    • 「学問というものが単に知るということではなく、疑うということから始まることを知った」
    • 「女性の地位を認めているのは耶蘇教だけです。耶蘇教を拡めることは女性の地位を高めることになるはずです」
    • 「人とその友のために 己の命を 捨つるは是れより 大なる愛はなし」
    • 東京女子医大創設の吉岡弥生日本女子大の開学に功績のあった広岡浅子と、明治の女子教育の先駆者の先達が荻野吟子だ。埼玉県熊谷市俵瀬の荻野吟子記念館でじっくりと人生を眺めると、苦労の連続の激しい一生に頭がさがる。人と違うことを成そうとするからには、人と同じ安穏な生活を望んではならない。これでいいのだときっぱりと言う荻野吟子は志の女性だ。