瀬長亀次郎−−−日本のガンジーと呼ばれた男。

沖縄那覇の瀬長亀次郎「不屈館」を訪問。
資料の豊富な、そして瀬長の抜群の業績と温かい人柄がみえる優れた記念館だ。

1907年生まれ。


瀬長は文章も、演説も素晴らしくうまい。新聞記者時代もあった瀬長は、この書斎で人々の心に響く原稿を書いた。
色紙を頼まれると必ず「不屈」と書いた瀬長亀治郎の人生哲学に深く納得する経歴である。記念館は「不屈館」と命名された。

瀬長には3つの星があった。母(「筵のあやのように、正直にまっすぐ生きるんだよ」)、松原先生(恩師)、沖縄人民党である。

1945年の敗戦後、日本軍に代わって米軍が沖縄を占拠。米軍はポツダム宣言を真面目に実施せず占領法規すら踏みにじった。人間としての価値も認められず、虫けらみたいに射ち殺され、はずかしめられ、略奪された。

県民を苦しめる三つのマムジン(魔物)と瀬長は言う。米軍と安保条約。大企業。自民党

「はて、おかしなこともある。平和からやってきて戦争へ行く。それも平和をつくるためにと。なぜはじめの平和にとどまっていないだろう」(瀬長が引用したドイツの寓話から)」

瀬長の風貌は何か滑稽感があり漫画にしやすいらしく、よく対象にされたらしい。
また写真をみると、よく笑っており、快活な行動で、親しみやすく、大衆に人気があったのはうなずける。瀬長は次のように語っている。

  • 「こんなときはよくやすんで明日のたたかいを組むことだ。早めにねる」(日記)
  • 「悲愴感があまり出すぎるとたたかいは長つづきしないことを学ばされました。だからたまには冗談もとびだし、ユーモラスなこともいう、いわゆる楽天的にかまえるということであります。しかも一本のスジは絶対に通していく、このことはつねに注意をはらうことにしています」

以下、瀬長亀治郎の言葉

  • 「母なる大地は何を求めているか。再び戦場にするな、沖縄を平和の島にして返せ、と叫んでいる。これが原点である。」「平和な島というのは基地も核兵器のない島をいっている」「(核査察を)外国には要求しながらなぜ自国の領土である沖縄にはできないのか。これでは政府の非核三原則も絵に書いたモチではないか」(佐藤総理への国会質問)
  • 「瀬長被告人の口を封ずることは出来るかもしれないが、しかし、しいたげられた幾万大衆の口を封ずることはできない。瀬長の耳をロウする事はできるであろう。しかし、抑圧された大衆の耳を封ずる事は不可能である。瀬長の目を潰すことは可能であろうが、しかし、不正と不義の社会の重圧をはねかえそうとして待機している大衆の眼を突き破ることは出来ない。瀬長を牢屋に叩き込むことは可能であろう。しかし、70万県民を牢屋に収容することは不可能である。
  • 「このセナガひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば全那覇市民まで聞こえます。沖縄の90万人人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波をこえて、ワシントン政府を動かすことができます」
  • テロリズムとは何か。暴力をもって個人または集団の生命を脅かすものだけを言うのではない。普通の常識を逸脱し、投獄することを自由自在に行う現実をテロリズムというのである」
  • 「日本独占資本が同じように彼ら(アメリカ帝国主義)の沖縄占領支配を支えているという点については、なかなか理解されない。覆面をしてくるからわからない(笑い)。「買弁的グループが祖国復帰を妨害している敵だ」
  • 小選挙区制は、自民党が40%台の得票で80%の議席を得ようとするものであり、議会制民主主義を根底からくつがえすファッショ的な暴挙でありました」
  • 「分断して支配する」。米日支配層はさまざまな「分離返還」論を持ち込んだ。
    • 日米支配層:「地域別分離」論。「基地と施政権の分離」論。「教育権の分離」論。「核つき基地返還」論。
    • 沖縄の買弁反動派:「復帰尚早」論。「積み重ね方式」。「日米琉新時代」論。「イモ・はだし」論。

瀬長らの行った「島ぐるみ」闘争は、今日の翁長知事に引き継がれているようにみえる。
祖国復帰を熱望した瀬長の見た祖国日本はどのように映ったであろうか。

参考資料。

  • 「瀬長亀次郎回想録 沖縄の心」(新日本出版社
  • 不屈館ガイドブック「瀬長亀次郎と民衆資料」


「名言との対話」9月5日。黒沢明

  • 「 サラサラとしたお茶漬けでなくて、お客にたっぷりとしたご馳走を食べさせたい。ビフテキの上にバターを塗って、その上に蒲焼を載せるような、誰も食べたことのないようなご馳走をね。」
    • 黒沢明(1910年(明治43年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月6日)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である。監督作品は1943年の「姿三四郎」から1993年の「まあだだよ」まで30本。「羅生門」、「生きる」、「七人の侍」、「赤ひげ」、「影武者」など。
    • 「私は一本の作ごとに、様々な一生を暮らして来た。映画の上で様々な人生を経験してきた」
    • 「 一日に1枚しか書けなくても、一年かければ、365枚のシナリオが書ける。」
    • 「 悪魔のように細心に、天使のように大胆に。」
    • 「創造というのは記憶ですね。自分の経験やいろいろなものを読んで記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんで、無から創造できるはずがない」
    • 「俺は豆腐屋だ。がんもどきや油揚げは作るが、西洋料理は作らないよ。」と言った1903年生まれのローアングルの小津安二郎監督とは対象的な作風だった。-「世界のクロサワ」と呼ばれた名監督の心意気が伝わる言葉である。映画監督という職業にも、その人の性格が如実に出る。