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壺屋焼物考−−「人に歴史あり、歴史に人あり」

壺屋焼物博物館(那覇市立)では、壺屋という地で咲いた焼物の歴史を展開している。
たまたま私が訪ねた日は、企画展で「金城吉彦・博美 作陶の軌跡」展をやっていた。この夫婦は陶器作りの同志であり、二人とも沖縄工芸展では奨励賞、入選をしている、と紹介されていた。
吉彦は同じく陶芸家であった父と祖父の影響を受けて、この道に入っている。博美は本土からやってきて、吉彦の父の工房に入り、後に吉彦と結婚している。

先に見た常設展で紹介されていた人間国宝・金城次郎は、吉彦の祖父だとわかり、改めて次郎の作品を鑑賞した。魚文がこの作家の特色だとわかり、帰りに店で魚文の描かれたぐい呑を購入した。

その博物館で「常設展ガイドブック」とともに、「壺屋三人男」という企画展のパンフレットを購入した。改めてこの「壺屋三人男」を読んでみた。そこには歴史があった。

金城次郎は1912年生まれ。
父は陶土を足でこねる雑役だった。父は息子に「お前は職人になりなさい」と言い、立派な陶工になって欲しいと期待していた。生活が苦しく尋常小学校の卒業をまたずに見習い工として新垣栄徳の工房で働く。

そのころ、民芸運動の創始者の一人である浜田庄司が毎年壺屋で3ヶ月ほど焼物をつくっていた。浜田は「沖縄の民芸は宝である」と教え、少年次郎はその教えを心に刻んだ。
終戦後、生活用品である日用雑器をつくるために先遣隊として壺屋に入り、工房を構えて独立する。
浜田庄司に呼ばれ、益子を見学する機会があった。このとき浜田は「本土のものを真似てはならない」と堅く言われた。
1954年に「沖展」に工芸部門が新設され、次郎は小橋側永昌、新垣栄三郎とともに出品する。
新垣と一緒に始めた「陶芸二人展」は、小橋川永昌を加えて、陶芸三人展に発展する。

登り窯からでる煙は公害問題となり、次郎は壺屋を出て読谷村で登り窯を守る。
1985年、金城次郎は国の重要無形文化財琉球陶器の技術保持者になる。人間国宝である。
人間国宝沖縄県初であり、金城次郎ブームが起こった。
金城次郎は、嬉しいが「陶工であることに変わりはない」と奢ることなく作陶を続け、2004年に93歳で亡くなるまで生涯陶工として生き続けた。

同世代の1909年生まれの小橋川永昌は苦心の末に、1950年代に「赤絵」を復活させている。
赤絵は琉球政府で使用される名品である。制作技術は秘伝であり、明治時代に最後の後継者が亡くなり調合技術が途絶えていた。68歳で死去。

1921年生まれの新垣栄三郎は、柳宗悦琉球の陶器」の中で河井寛次郎が「壺屋と上焼」という文章で、30代の次郎と20歳弱の栄三郎の姿が記されている。栄三郎は父の方針で教員になるが、興味あった作陶の道に入る。栄三郎は陶芸家として活躍する一方、琉球大学美術工芸科の講師、助教授をつとめる。

こうやって、壺屋の作陶の歴史を眺めてみると、三代にわたる人のつながりと技術の継承に思いを馳せることになる。
血のつながりのタテ糸と同志のヨコ糸が織りなして大きな図柄を見せている。
また、タテとヨコの交わった時期に、民芸運動のリーダーたちに出会ったことも大きな推力となっていることがわかる。タテの更に上方と下方、ヨコの広がりをもっと調べると壮大な物語になるだろう。

また、浜田庄司(1894年生まれ)は、本拠地を益子にするか、壺屋にするか、迷った。もし、1930年に壺屋を選んでいたら、日本と沖縄の陶芸の歴史もまた大きく変わっていただろうと夢想する。

「人に歴史あり、歴史に人あり」だ。
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「名言との対話」9月5日。堂本印象。

  • 「最初にそれがとても至難だと思われるものを、屈服せずにやり遂げると、それは必ず至難ではないものであることが分かる。」
    • 堂本 印象(1891年12月25日 - 1975年9月5日)は京都市生れの日本画家。帝室技芸員日本芸術院会員。。1961年(昭和36年文化勲章、1962年(昭和37年)密教学芸賞受章。
    • この画家は、生涯において画風の変遷があるのだが、一方で日本各地の古寺名刹、神社に約600面に及ぶ障壁画を描いているのも特徴である。画題は100。高野山金剛峯寺の十六大菩薩、信貴山成福院、浅草寺天人、平安神宮の女郎花と鹿、東寺教王護国寺)、仁和寺の松と鷹、、。華麗な画風に加えて、大作が得意で、画域が広いからだろう。印象は部類の読書家で、多方面の書物を読み、深い知識を持っていて、それがとりあげる画のテーマの広さにあらわれている。
    • 「メトロ」という作品は、61歳で画風の刷新をはかるべくヨーロッパに旅立ち6か月を旅に費やしたあとに発表した作品。日本画とヨーロッパの抽象画の融合された作品だ。この堂本もマンネリを打破するために、自分を奮い立たせているのだ。
    • 「でも、私にはレオナルドが、ミケランジェロが友達だ、、」と言った堂本印象は、歴史上の大天才たちの仕事を励みにして、最初から困難な大作に挑んだのだ。やさしいものから手をつけがちであるが、そうではなく。難しいものから始めよ、である。