「上宮永四丁目物語」を----樋口裕一先生「卒業」記念講演会

「名言との対話」(生誕日編)1月20日。中村八大中村八大は他から作られず、自分で完成させる物也。よってすべての環境は、彼にとって生かされる。中村八大が送る生涯は自分が製作する人生也。中村八大は永遠に生きねばならない。中村八大は誰よりも苦しく、誰よりも幸せでなければならない。中村八大は今日から決定的に作られて行く。1953年十月二十一日 右の通り決定する。」

中村 八大(なかむら はちだい、1931年1月20日 - 1992年6月10日)は、日本作曲家ジャズピアニスト青島(当時は中華民国、現在の中華人民共和国)出身。

上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。

上を向いて歩こう」は、永六輔作詞・中村八大作曲・坂本九歌の、日本が生んだ世界的大ヒットである。1961年に発表され、「SUKIYAKI」と命名されて1963年にはビルボードランキングで1位になり、それが3週続いた。翌年にはアメリカで100万枚に達し、ゴールドディスクをもらうという栄誉をもらう。こういう歌は日本からはその後も出ていない。空前絶後の出来事だった。現在この歌は70ケ国で歌われている。

上を向いて歩こう」は、1985年の日航機事故で坂本九が亡くなった後も日本人に愛されて歌い継がれてきた。そして2004年の台風23号による水害でバスの屋根で一晩過ごした乗客がこの歌を歌って互いに励まし合うという事件も起こる。2011年の東日本大震災でも、復興の歌として毎月3月11日に全国でこの歌を歌う運動が続いている。不思議な力を持った歌だ。

中村八大は1931年中国青島生まれ。私の母とは幼なじみ。私も子供頃に「はっちゃん」に会ったこともある。10歳の時、荒城の月とさくらさくらを聞いて、「涙をとめどもなく流し、このときに初めて生涯をかけて、大音楽家になろうと、心に誓ったことを覚えている」と述懐している。1954年に早稲田に入るために久留米から上京する。「いよいよ僕自身の人生が、僕自身の未来が、僕自身の手で限りな開けてゆくのだ」と記している。
いずみたくは1万5千曲。古賀政男5千曲。浜口庫之助5千曲。服部良一3千5百曲。ところが中村八大は意外に少なく5百曲にも満たない。しかし「黒い花びら」「こんにちは赤ちゃん」などレコード大賞をとった曲も多い。

10代の後半には「多数の霊との条約:願望達成の瞬間までの絶対的禁煙。週1回を越えない変質量。飲酒は家庭で主に小量。生活規律化の実行。金銭の倹約。基本的学(楽)門。適度の運動。眼前の仕事を直ちに処理する実行力」と計画した。そして22歳の日記では冒頭の決意を示している。自分自身の人生を形づくっていき、人々の心に残る名曲を創り、そして永遠に生きることになった。中村八大は決意と計画と、そして実行の人であった。

 

「副学長日誌・志塾の風170120」

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  • 金子先生:教務
  • 樋口先生「卒業」記念講演会

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  • これまでの私「好きなものを徹底的に、自分は音楽。人間は変化できる。経験はすべて生かそう。発信せよ。発信の仕方は、まねる、相づち、質問、論理的口癖、感じのよさ。」
  • これからの私「感じの悪いジイさんに戻る。小説(上宮永四丁目物語、、)やエッセイを書きたい。仏教で真理を学ぶ(西洋かぶれから、、)」

樋口先生と私は、幼なじみであり、他の人たちとは違い、ある種の感慨を持って聞いていた。

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「上宮永四丁目物語」に登場する子どもたち:樋口ゆういっちゃん。久恒けいぼちゃん。向井けんちゃん。久恒ともちゃん。たかちゃん。

 

  • 松浦さん