「賀古鶴所という男」展

森鴎外記念館(文京区立)は、「賀古鶴所という男」展を開催中だ。

賀古鶴所とは誰か。鴎外は「何事でも打ち明けて相談するといふ友達は生涯に一人あれば沢山だ」と言った。その一人とはこの賀古鶴所だった。鴎外の遺書では「少年時代より老死に至るまで一切秘密無く交際したる友」と述べられている。

賀古は親友鴎外の遺書を口述筆記した人物でとして有名だ。

陸軍からの依託学生で東大医学部で学んでいた賀古は、二つほど年齢を若く偽っていた鴎外より6歳の年長だった。

賀古は浜松藩藩医の長男で、のちに日本における耳鼻咽喉科の基礎を築いた人物である。二人が交わした書簡が250通以上、この記念館に残されている。この企画展は、二人の往復書簡を中心に構成されていた。

当時の「文士政客風聞録」には「資性豪放にして挙措極めて磊落、而して手腕頗る巧妙、豪も患者に痛苦を与えず、、、、蓋し刀圭社会の一奇物」とある。

山縣有朋随行員として欧米を巡回し懇意になり、鴎外が引き立てられたきっかけを提供した。それは山縣が発起人となった歌学研究の常磐会で、鴎外と賀古が幹事で山縣との関係が密になった。その会は山縣が亡くなるまで185回も続いていた。

鴎外と賀古は千葉に300坪づつの土地を買い別荘を建てている。鴎荘と鶴荘と名付け、書の大家・中村不折がその字を書いている。

鴎外の妹・小長井喜美子(夫の母は長岡藩の小林虎三郎の妹)は、「鴎外の思い出」(岩波文庫)を著して、「賀古氏の手紙」という章を設けている。「賀古氏と兄とは、終生真実の親戚以上の交際を続けました」とある。「山縣公その他へも推薦せられたものでした」とも語っている。

 

以下、鴎外の日常。

「兄は食物では新しい野菜を好まれましたが、全体にひどい好き嫌いはないようでした」「牛乳だけはお嫌いのようでした」

「万年筆がお嫌いだっちょうに、新しいものはあまりお好きではないのです」

「電話での応対なども下手でした」

「書斎には蔵書が溢れ、昔からの趣味で、あらゆる物を切り抜いて貼付たのが山を成しています」

記念館で買った森まゆみ「鴎外の坂」(中公文庫)。

「鴎外は自ら醜男だと思っていた」

「鴎外の散歩の楽しみは古本屋」

 

「名言との対話」1月29日。大賀典雄「「私がソニーに入って、得をしたのはソニーです。」

大賀 典雄(おおが のりお、1930年1月29日 - 2011年4月23日)は、日本実業家指揮者声楽家CBS・ソニーレコード株式会社社長(初代)、ソニー商事株式会社社長、東京商工会議所副会頭、ソニー株式会社社長・最高経営責任者(初代)、社団法人経済団体連合会副会長などを歴任した。当時ソニーの社長だった大賀典雄カラヤンの自宅を訪ねた時、カラヤンは「左胸のあたりが調子悪いから、自宅の温水プールで泳いだ」と語った。大賀は、カラヤンに次世代のデジタルビデオ・カメラを出来るだけ早く納品する約束と、カラヤンがLDでの発売しか認めていなかったレガシー・シリーズの映像作品を8ミリのソフトで発売しないかという営業に来ていた。エリエッテ夫人がシャワーを浴びている時に、カラヤンが突然ぐったりとなり(心不全)、大賀の腕に抱かれたまま心停止となった。緊急のヘリコプターが呼ばれたが間に合わなかった。それは、カラヤンがDGからソニーに移籍する直前の死去だった。

「ユーザーの琴線に触れる製品でなければ、ダメなんだ」

ソニーが役員出張用の飛行機を購入した時、自ら飛行機の免許を取得し操縦して海外出張に出かけていた。雑誌などでもよくその姿は紹介されていたのを記憶している。

身長178センチの大賀には独自の睡眠理論があり、9時半か10時ぐらいに一度寝て、午前2時ぐらいに目が覚めると、指揮の楽譜を覚えたり、地図を見たり、飛行機の操作方法を学習するなど勉強をし、午前4時ごろ再び就寝する。

冒頭の「私がソニーに入って、得をしたのはソニーです。」の後には、「私は声楽家としてその名声を確立するかわり、ソニーで芸術面からソニーの製品に磨きを掛けた。それによりソニーのブランドが確立できた。」が続く。ウィンウィンの関係ではあったが、ソニーのブランド確立がより効果が大だったのだろう。こういう刺激的な言葉を自信を持って言えることは凄いことだ。

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自宅。

  • 仕事の文書作成。雑誌原稿の執筆。書斎の片付け。、、、。
  • 「野口雨情」「二葉亭四迷」「椋鳩十」「田中久重」の「名言との対話」の執筆を終了。あと3人