浜田庄司参考館--「私の陶器の仕事は、京都で見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」

栃木県益子の浜田庄司参考館を訪問。

「私の陶器の仕事は、京都で見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」

30歳で益子に入り20年経って50歳でほぼ完成の域に達した。

3万坪の敷地の中に立つ。1977年開館。益子は浜田の理想の陶郷であった。

陶磁器、漆器、木工、金工、家具、、、など浜田が16歳から生涯にわたって蒐集したあらゆる民芸がある。地理的には、日本はもとより、中国、朝鮮、太平洋、中近東、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、、。歴史的には、紀元前から近現代まで。集めた生活工芸品は4千点に及ぶ。これらを人々に参考にしてもらいたいという意味で参考館と名付けた。これらの蒐集品は浜田の仕事の水準を落とさないように監視する役目も持っている。自分を感動させ、自分をはるかに超えているものに浜田は惹かれた。自分に語りかける物や自分の及ばない物に、浜田は昂奮した。この参考館は訪問者や芸術家が未来を準備すること助けるためにある。

最初絵描きになろうと考えていた浜田は15歳で「用の美」の工芸を目指すことになった。隣に住む木村荘八の蔵書の中からルノワールの「美術志望者が少しでも工芸に進めば工芸の質が向上する」という言葉を見つけたのである。「民芸」という言葉は、1925年頃に生まれた。当時浜田は31歳あたりだ。浜田は83歳で没しているから、70年近くの年月を工芸に励んだことになる。志を早く立てることの成果でもある。

「相手に聞く。土に聞き、釉に聞き、火に聞く」

「使いやすく、平凡で複雑な美しさに満ちている」

悠々たる大きさ、堂々とした形姿、地味ながらこくのある釉色、生き生きとした絵付け、温かく親しみに満ちた味わい、、、。

 

浜田庄司東京高等学校窯業科で河寛次郎と出会う。

卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に就職する。

知り合ったバーナード・リーチに誘われ、3年間イギリスのコーンウェルに滞在する。

関東大震災で混乱の中、日本に帰り、河井宅で過ごす。当時の河井寛次郎は方向感を失っていた。京都で知り合った柳宗悦河井寛次郎浜田庄司の3人組は日本の美の新しい方向を見いだした。

 

英国で田舎暮らしを知った浜田は、栃木県の益子に居を構え、作家活動に入る。

片足を都会に置き、必要な時はいつでも都会に出て共同体の一翼を担う。そういう田舎暮らしを楽しむ生活にあこがれた。田舎に家を持ち、しかも都会の活動から切り離されずにいられる益子を選んだ。寒い季節は焼き物の伝統のある沖縄(壺屋)に、暖かい時期は益子というように往ったり来たりを考えた。

健やかさと正しさを大事に考えた。そのために焼き物の伝統が生き続けている田舎に仕事を場所を探したのだ。益子焼きは1852年大塚啓三郎によって始められたた。まだ歴史は浅い。

「良い土から悪い物をつくるよりも、劣った土で良い仕事をする方を選ぶ」

土は粘着性と可塑性(肉体と骨格)を持ち、火に強い必要がある。一番単純な土が最良だ。

 

 

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 浜田は疲労を知らなかった。

「私はリズムに乗り、そしてリズムが私を運んでくれる」

 

浜田は中学生の頃亡くなった母から「お前はおしゃべりが過ぎる。慢心してはいけません」と枕元でたしなめられた。また「無尽蔵」(講談社)などを読むと、一級の文章家であることがわかる。話術、文章での優れた表現者だったのだ。感性と知性が豊かで均衡がとれた人であった。

 

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 左から浜田庄司(54歳)、柳宗悦(60歳)、河井寛次郎(58歳)。1949年の日本民芸協会全国協議会にて。民芸運動の主役たちが並ぶ貴重な写真。

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 「私の夢は如何なる既成の物指でも計ることのできない美しさの物に出会うことだ」と語っていた柳宗悦は、真の創造的批評家であったと浜田はいう。

 

河井寛次郎は絶えず種類や手法を一変した。河井は受け取る名人であった。人が集まる人柄。

・河井の浜田評「何処へ行っても、何をしていても一筋に立派な事と物を仕上げてくる」「何よりも先にゆるぎのない土台を置く。そしてきざすものを調べ、きざす物を整理し、きざすものを配列する」

柳宗悦。旧いものも新しいものも、今までなかった角度から切り返して、特別の新しさで美しさを見せた。直に観た。「物を作る自分達にとっては、いつも柳の厳しい眼を想うことによって、どれほど仕事の間違いを少なくさせて貰ったか知れない」

 

浜田庄司という人物は、益子焼の作風そのものという感じがする。

土台がしっかりしていて、ゆるぎがない。地味ではあるが、本物である。流行よりも不易を愛する。古今東西の工芸品をみながら、独自の物をつくることに迷いなく生涯を捧げる。京都の河井寛次郎とはまた趣の違う柄の大きな人であったと思う。

 

以下、読了した参考文献。

 「近代日本の陶匠 浜田庄司」(講談社カルチャーブックス)

浜田庄司 釜にまかせて」(日本図書センター

「無尽蔵」(浜田庄司

 

「名言との対話」3月26日。李承晩「一つになれば生き延び、ばらばらになれば死ぬ」

李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン 1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。

日本の植民地時代、アメリカを拠点に独立運動を展開した。戦後、大韓民国を建設し大統領に就任。北朝鮮金日成を意識しており、「北進統一」を掲げる親米反共主義者であった。1952年に李承晩ラインを宣言し、日本に強硬姿勢を取り、13年後の1965年の日韓基本条約まで、日本漁船拿捕が続いた。

李承晩には毀誉褒貶があるが、植民地、独立闘争、建国、朝鮮戦争、、、など幾多の困難に立ち向かった人であることは間違いない。民族が内部で争うことは筆舌に尽くしがたい悲劇であり、統一こそが民族を前に進ませる道である。内部対立の克服が繁栄への道である。それは民族、国家だけではない。あらゆる団体、組織にもあてはまる道理だ。ばらばらになれば生き延びられない。