日光東照宮--「政を為すに徳を以てするは、たとえば北辰の其の所に居て、衆星の之に共(むか)ふが如し」(論語)。家康は北極星であった。

日光東照宮

 世界遺産日光東照宮の「平成の大修理」が行われている。その中には国宝「陽明門」の修理工事があり、3月10日から4年ぶりに公開された。その直後に訪問する機会を得た。400年前の壮麗な姿を堪能した。一日中みていても飽きないことから「日暮らしの門」と名付けられたのも頷ける見事なものだった。

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「遺骸は駿河久能山に葬り、祭礼を江戸の増上寺に申しつけ、位牌は三河大樹寺に立て、一周忌が過ぎたのち、日光山に小堂を建て勧請せよ。これによって関八州の鎮守となろう」。75歳で亡くなった家康のこの遺言どおりの処置が行われた。ただ、結果的に日光には小堂ではなく、壮麗な東照宮が建った。

日光は「宇宙を主宰する神」である北極星(北辰)と江戸の線上に位置する。そこでは家康は絶対神である東照大権現として日光で再生し徳川政権と国家を護った。天下人とは天帝から選ばれた者であり、意に沿わなければ命を改め追放される。それが革命である。

「政を為すに徳を以てするは、たとえば北辰の其の所に居て、衆星の之に共(むか)ふが如し」(論語)。家康は北極星であった。

家康を尊敬する三代将軍家光は建築費用「おかまいなし」(無制限)の大造営を行った。現在の価格にして200億円以上、のべ454万人を用いた。

家光は朝廷から天皇の勅使を派遣するよう願い、伊勢神宮の伊勢例幣使を復活し、同様に国家神である日光東照宮への日光例幣使を新設した。これは1646年から222年間続いた。日光例幣使は、中山道を下り、日光例幣使街道を進み、帰路は日光街道から江戸経由で東海道で戻った。全行程1200キロ、一日40キロの厳しい旅路であった。

朝鮮通信使は江戸時代12回の来日があり、東照宮参詣は3回。使節団500人のうちの200人に警護・接待を加えて1000人を超えた。

琉球使節は3回参詣している。一行は70-100人で総勢は500人規模だった。

1873年(明治6年)、別格官幣社

1946年(昭和21年)、国家管理を離れ宗教法人

 

東照宮の建築装飾は、人物・霊獣・動物・霊鳥・野鳥・水鳥・樹木花木・果物・草花・穀物野菜・水草・自然など実に多彩である。以下、新しい知識。

聖賢は儒教の高潔な理想人物。仙人は道教の不老不死の仙術を体得した理想人物。龍は天子たる皇帝のシンボル。逆鱗。鳳凰も皇帝のシンボル。唐獅子は聖域の守護神でライオン。狛犬は神域の守護神。麒麟は仁徳の瑞獣。漠は平和のシンボル。虎は家康の干支で百獣の王。鳳凰は聖徳の天子の兆しの瑞鳥、雄が鳳、雌が凰。鸞は天下安寧の瑞鳥。鶴は神の乗り物で長寿と幸福のシンボル。

 

日光東照宮宝物館は日光東照宮四百年式年大祭記念事業として2015年3月13日にオープン。徳川家康公の遺愛品をはじめ、朝廷や将軍家・大名家からの奉納品、当宮の祭器具などを収蔵、展示公開。

 

 

「名言との対話」3月31日。横井庄一「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました」

横井 庄一(よこい しょういち、1915年3月31日 - 1997年9月22日)は、日本陸軍軍人評論家最終階級陸軍軍曹栄典勲七等青色桐葉章

アメリカ領グアムで敗戦を知らずに28年間の逃亡生活後、1972年1月24日にグアム島で島民に発見される。その時、56歳。2月2日グアム島から東京へ。4月25日帰郷。11月3日結婚、57歳。1997年永眠。享年82歳。横井さんは私の大学生時代に大ニュースとなった伝説の人物だ。

横井さんのお母さんは、ずっと「庄一は生きている」と言っていたそうだが、帰国する13年前に亡くなっっている。母の言葉が正しかったわけだ。名古屋の記念館は、25年ほど住んだ自宅の一階の二間である。館長は12歳年下の妻の美保子さん。品の良い奥様は1927年生まれだから私の母と同じ年である。奥様の美保子さんは「六十路越え喜寿も米寿もなんのその白寿も迎えて尚生きたまへ」という歌を詠んでいる。

28年間の逃亡生活を続けられたのはなぜか。捕虜になれば国に不忠、死ねば親に不忠となる。どちらも大事だから、自分の力で生きていけばいいと横井軍曹は考えたのである。1m50cmほどの深さ、幅は4m50cの穴倉での想像を絶する生活を支えたのは、手先の器用さと聡明さ、そして生き抜くという意志だったと思う。機織り機、ボタン、針、など生活上のあらゆるモノを作りだしていることに感動を覚えた。

「私はこれから、失われた日本人の心を探し求めたいと思います。、、勤勉な心を失った国民が本当に繫栄したためしはありません。、、食糧の大半を輸入に頼っているようでは独立国家と申せません。、、、子が親を大切にしないような教育、生徒が先生を尊敬しないような教育などあってたまるもんですか。そんなものがあれば、それは教育と言えません。」

戦争時に国に忠を尽くした横井庄一の目には、戦後日本は「国あって、国なし」とみえた。横井庄一は、国とは何か、重い課題を日本に突きつけている。