日本未来学会シンポ「参加型メディアの未来」(日本科学館)--参加型メディアに関係するオールスターのシンポジウムであり、とても刺激を受けた。

日本未来学会は1968年創立。

1967年に林雄二郎、梅棹忠夫小松左京加藤秀俊川添登の5人が「Energy」で未来学を提唱し、国際未来会議の受け皿として設立された。2018年に50周年を迎える。私も最近この学会の理事を拝命した。

「近代国家には近代の法律と倫理があり、情報化社会には、情報化社会の、社会ソフトウェアが必要である」(林雄次郎)

参加型メディアに関係するオールスターのシンポジウムであり、3時間半という短時間とは思えないほどの刺激を受けた。

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 第一部 大喜利シンポジウム「インターネット・メディアの課題と希望」。

大喜利(おおぎり)とは、一つの質問に専門や地域などバックボーンが違う登場者たちが語るスタイル。一つの質問に対してさまざまの角度から照射がかかり、短時間で問題を巡る全体状況がつかめる方式。その場で答えるので思いがけない交流があり楽しめる。6人。教授・会長・社長・翻訳者・経産省・理事。

ソーシャルメディアとは何か?  サピエンスはうわさ話、茶飲み話から始まった。グローバル・ビレッジ。本業への導線。評判のメカニズム。スマホは楽しい大リーグ養成ギブス。

ネトウヨがなぜ増えたのか?  左翼が減った。本音をいえる。悪口メディアは普通のサラリーマンの拡大装置。右翼の方が面白い。既存メディアはピューリタリズム、建前。打ち壊し運動。

DeNAのキュレーションサイト問題?  グーグル検索にはLINE・FBはひっかからない。ビジネスとなるには長続きが必要。受け手が賢くなること。N対Nがインターネット。「若気のいたり」がなくなった。アーカイブの暴力。敵対というより互いを見張る感じ。インスタグラムではなるべく言葉を使わないのがコツ。アメリカではチャットブーム。スナップチャットは24時間で消えるのがいい。10代から20代前半。日本でもそうなる。

参加型?  参加してメリットがある仕組みがいる。情報を創りだすのは難しいが評価は誰でもできるからSNSは参加型。行政にも出入り自由の参加型を。勝敗分野はAI。AIの下請けの幸福も。

 

第二部 10分トークライブ「メディアの現在・未来」。

メディア関係者のそれぞれの領域の現在と未来が短時間のシャワーでわかる仕掛け。

9人:ペーパー・深呼吸歌人・地球生命・イスラエル・クチコミ・アプリ・映像・ビジュアルブック・DMO。

新聞販売店:ソーシャルな活動の代償として新聞をとるという形。

TED:TEDXで小さなTEDが167ヶ国で1万回以上。

科学情報:正確性とわかりやすさのジレンマは揺るサイエンス(ゆる度の異なる情報のパッケージ)で解決。関連性を考えてもらうインタビュー映像、同じ質問で串刺し。

イスラエル:スタートアップ大国。テクノロジー立国。国全体がシリコンバレー。人材・拠点・スタートアップ・還元というエコシステム。

クチコミ:クチコミの9割はポジティブ情報で勇気づけられる。ワンピースのモンキー・D/ルフィー。聞く力、メディは媒介者。

VR/AR/MR:仮想現実・拡張現実・融合現実。二つの人生を生きる時代。コンタクトレンズ型。音声入力から脳波入力へ。アニメ・マンガ:MOOC大規模公開高度教育オンライン講座。美術に向いてる。AIに代替されない分野は文芸・芸術・音楽・演劇など。手作り、ライブパフォーマンスが珍重。

出版:R25の廃刊。出版クラウドファンディング。ブランドとアイコンの強度に応じた最適ディストリビュート。1万円100人で自由度があがる。都市空間:公開空地の活用で街直し。

 

第三部 シンギュラリティ以後の世界へ

国際社会経済研:ポリモルフィック(多形構造)ネットワーキングの時代。デジタルのつながり。車座に向き合うしくみ。創発(インターラクションによる)。問いをつくる教育。宇宙観・生命観・人間観を含む社会的ソフトウェア。

よはとつ図形:参加型メディとはコミュニティづくりだった。個人参加のコミュニティ。涅槃社会へ。

総括:用語事典に代表されるルールがなくなった。SNSの炎上をマスメディアが報道。100万回は視聴率1%しか。発信者が急増。広く深く総量が大きい。新しい方法論の発見。

 

「名言との対話」。4月2日。熊谷守一「自分を生かす自然な絵をかけばいい。下品な人は下品な絵。ばかな人はばかな絵。下手な人は下手な絵をかきなさい。結局、絵などは、自分を出して生かすしかないのだと思います」

熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年明治13年4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。極度の芸術家気質で貧乏生活を送った。

豊島区千早にある熊谷守一美術館には知的な感じの老夫婦らがゆっくりと訪れていた。この画家がようやく売れ始めたのは1964年頃というから84歳頃と、随分と貧乏な時代が続く。好きな小さな子供と鳥と虫を題材に絵を描いて楽しんで97歳で没している。「画壇の仙人」の自然体の暮らし方に共感するファンは多い。

「たとえ乞食になっても絵かきになろう」と絵かきを志す。「もし神様がいたらこんな姿では」とアイヌが思った絵をかいた。「これ以上人が来るようになっては困る」と文化勲章を辞退した。こういうエピソードは熊谷の人柄と志をよくあらわしている。

「自分で何かを考え出したりつくったりするのは平気だし好きなのだが、人のマネというのが不得手なのです」

「絵を描くのは、初めから自分にも何を描くのかわからないのが自分にも新しい。描くことによって自分にないものが出てくるのがおもしろい」

「大好きなのは、世の中にいっぱいあります。特に小さな子供と、鳥と虫には目がありません」

熊谷守一の好きな言葉は「独楽」「人生無根帯」「無一物」「五風十雨」であり、嫌いな言葉は「日々是好日」「謹厳」だった。この人は自然体の人だった。下品な人、ばかな人、下手な人、それぞれの人にふさわしいものしかかけないから、それに徹せよということか。表現されたものには表現者の姿がうつる。それを突きつめるしかない。