少年の頃によく遊んだ近所の貴船神社。
御神楽。紙芝居。鶴市祭り。、、、。
よく登って遊んだ「神田記念碑」
神田記念碑の裏側の記述。
久恒貞雄さんの開拓事業の顕彰碑だったのか。
昼に内尾君の裏庭に集合。バーベキュー大会。
次々と同級生などが順番に現れ、持ち寄った肉、魚、鶏、野菜、椎茸、おにぎり、ビール、日本酒、などを飲み食いしながら歓談。
陽気がよく、話が弾む。新しい人では警察署長、市役所の課長さんも一緒。
高校同級生は、内尾。瀬口。久持。吉森。
庭のメタセコイア、けやきなどの木々や、桜、辛夷などの花々、いちご、、、。自然の中で大いにリラックス。
始まったのが正午あたり、終わったのが夜の8時。
8時間も飲んでいたことになる。
帰りに久持君の自宅によって、奥さんと一緒にお茶を飲みながら歓談。
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「名言との対話」4月16日。坂上二郎「夢は諦めたら消えちゃう。だから諦めたらいけない」
坂上 二郎(さかがみ じろう、1934年4月16日 - 2011年3月10日[1])、は、日本のコメディアン、俳優、歌手。通称「二郎さん」。
1966年、萩本と再会し、お笑いコンビ「コント55号」を結成する。たまたま麻雀のメンバーが足りず萩本に電話をかけたのが55号に繋がった。もともと即席コンビだったのが、浅草松竹演芸場・日本劇場などで人気を博し、演芸ブームに乗ってテレビに引っ張りだことなり、再度芸能界で活躍するようになった。コント55号ではボケ担当で、萩本の「タレ目」に対して「チッコイ目」で売った。「飛びます、飛びます」や「コタローね」といったギャグで人気を集める。
2005年6月4日には、栃木県那須塩原市に転居。お笑い芸人の育成学校『那須お笑い学校』の名誉校長に就任した。また同時期に、それまで居住していた東京都練馬区(平和台駅前)にも、自らが学院長を務める『総合芸能学院キャメルアカデミー』を開校している。
一世を風靡したコント55号。萩本欽一は台本を無視して無理難題をふっかけるが、坂上はそれをすべてクリヤーし笑いを誘う。その芸は見事だった。最高の受け役だった。上二郎さんは、歌手を目指して上京し、さまざまな職業を経験、キャバレーの営業等で食いつないでいた1966年にコント55号でようやく表舞台に立った。その二郎さんがいう「夢」の言葉には説得力がある。