インターゼミ(九段サテライト)

「副学長日誌・志塾の風」170513

九段サテライトでインターゼミ

・明治大へ転出した奥山先生と懇談。

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・17時過ぎから蕎麦屋で池淵さんと高野課長と30周年出版の打ち合わせ

・18時過ぎからインターゼミ終了後の教員メンバーが加わりミニ宴会

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 「名言との対話」5月13日。芹沢 銈介「もうひとつの創造」

 芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭、1895年明治28年5月13日 - 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家

柳宗悦『工藝の道』を読んで「長年悩みつつありし工藝に関する疑問氷解し、工藝の本道初めて眼前に拓けし思いあり。生涯にかかる感動的の文章に接せしことなし」と感じ、柳を生涯の師と定める。柳は芹沢を「立場をくずさない質」「考えにぐらつかない」人と評した。また芹沢の仕事を「模様を生み、こなし、活かし切り、また派手でありながらも俗に落ちない色を生み出した」と評している。

「別冊太陽」では、図案家から染色作家への20代、柳宗悦と紅型(びんがた)に導かれた30代、東京移住と沖縄への旅の40代、終戦から復興への50代、津村の暮らしと相手なしの仕事の60代、「もうひとつの創造」への情熱の70代、パリ展と最晩年の日々の80代というように芹沢の生涯を総括している。

東北福祉大学の芹沢の美術館でみた映像では、裸婦像が、次第にデザイン化、単純化されて、最後は縄に変化する図案などには驚かされた。その映像の中で池田満寿夫は「単純化への意思がある」「見たものを即刻デザインする」「自然からデザインする」というように芹沢の特徴を分析している。

「どんどん染物を染めていって、自分というものなどは、品物のかげにかくれてしまうような仕事をしたい」という。芸術は自己主張で動物的なものが中心だが、芹沢は逆で植物的だ。対象にのめり込むことで、自分の存在を消していこうとする。

70代からの「もうひとつの創造」とは、自分で選び、日々を楽しんだ蒐集に情熱を傾けることであった。芹沢は、染織家としてのつくる喜び、蒐集家としてのつかう喜びの両方を知っていて、自宅に人を招くときは、配置するものを変えていたそうだ。創作と生活の一致にいたっている。時代や国境を越えた、そして様々なジャンルにわたった蒐集の日々も感動的な日々だった。染織と同様に、蒐集もまた創造なのである。