安岡正篤「禅と陽明学」(プレジデント社)

安岡正篤「禅と陽明学」(プレジデント社)を読了。

  陽明学に至る道筋を禅からたどり、陽明学を解説した書だ。東洋哲学は脳科学で証明されてきつつある。ダライ・ラマ仏教の解説も宇宙科学から説明して納得した覚えがある。最先端科学で哲学や宗教を説明する時代になった。

禅と陽明学〈下〉 (人間学講話)

禅と陽明学〈下〉 (人間学講話)

 

以下、自分なりに要点をまとめてみる。

人間の意識の深層は永遠につながっているから、真剣に学問求道をやれば主観を通じて大いなる客観に到達する。それが主客合一だ。良知を究める、それが致良知だ。

達磨から始まった禅宗では南都北漸というようになる。南派は直ちに悟る頓悟を旨とし、北派は修養を積んで悟る漸修を旨とする。五家七宗があり、そのうち臨済と曹洞が日本に伝わった。臨済宗は棒で殴り、怒鳴りつける喝を行う。曹洞宗は綿密である。

儒教仏教道教がしだいに総合されて易学が誕生し、宋の時代には新たな人生と社会の指導原理になった。太極から陰と陽が生まれる。この考えでは生まれた日が一番大事という運命学になる。それが統計学でもある四柱推命である。

禅は道を体得させる。実践を大事にする。自分の体で実践し考えさせる。そして主客一如になる。禅の奥義が華厳。何妙法蓮華経とは自分自身を蓮華のように清く尊いものにし、世界を美しい蓮華のような理想世界にすること。

スラブ人は虚無的で何者も信じない。中国人は人間を信じる。漢民族は生命力が偉大であり、最後まで残るだろう。日本人は偉大なものを信じる。その日本人の民族性が禅や陽明学に意義と魅力を感じる。

王陽明(1472-1528)。快活。良知・致良知とは大脳皮質の論理的思索から始まり生命・意識の偉大なる深層に徹することだ。知行合一とは、知と行が限りなく循環して発達していくもの。心身一如。

(蒙古ほど面白いものはない。50歳のジンギスカンと26歳の耶律楚材の出会い。楚材は30年間宰相だった。忘年の交わり、か)

(参考文献:「太極図説」。「易学入門」。露伴「運命」。「湛然居士集」。「碧巌録」「十八史略」。「抜本塞源論」)

 

「副学長日誌・志塾の風」170524

  • 人事委員会:10時から
  • 学部運営委員会10時40分から12時30分

研究室

・大学院授業準備:共謀罪

・学部授業準備:社長メッセージ

ラウンジ

・荻坂客員教授:学部の授業。大学院OB会、、、。

・杉本係長:戦略会議資料

・高野課長:「多摩大モデル」

・杉田学部長:事業構想

・大森映子先生

・金先生:アクティブラーニングの動き

・趙先生・飯田先生:読書コンクール


「名言との対話」。5月24日。結城豊太郎「忘年の交わり」

結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5月24日 - 1951年(昭和26年)8月1日)は、日本銀行家大蔵大臣日本銀行総裁、第5代日本商工会議所会頭を歴任。

中学時代に家族銀行を提案し、話題になるなど早くから金融に興味を持っていた。採用が無いのに当時の高橋是清副総裁に直談判して入行。経世済民が原義の経済に関心を持ちこの分野を歩み続けた。

高等文官試験に通っていたが、経済金融を学ぶため日銀を選ぶ。請われて安田財閥に入り、大安田銀行の創建。興銀総裁、商工中金創立なども行った。実務よりも諸学国の視察に重点を置き、現状把握を通して未来に向かった。

「ふるさとは国の本なり」といい、人づくりに力を注ぐ。吉田松陰を尊敬。故郷の赤湯には、上下水道を引き、風也塾を設立し若者を運指導、臨雲文庫を設立し万巻の書を寄付し図書館とした。故郷の南陽市結城豊太郎記念館は江戸の旧薩摩藩邸を移築した門が入り口だった。

修身・斉家・治郷という言葉を用い、郷学という言葉も使っている。20歳年下の東洋学・人間学の権威である若き安岡正篤を亡年の交わりと称して交流した。忘年の交わりとは、漢代の大学者孔融(当時50歳)と禰衡(でいこう)(20歳未満)との交わりを世人が呼んだというい故事による言葉だ。忘年の交わりとは若い人に師の礼をとることだ。結城は21才年下の安岡に感服し師事した。そういう姿勢を見習いたいものだ。