1903年山梨県大月市初狩町生まれ。本名は清水三十六(さとむ)。貧困のなかで生長する。
甲州人気質を嫌悪していた。それは面従腹背、吝嗇、フレキシビリティがない、妄執。
山本周五郎には恩人が二人いる。生涯第一の恩人は小学校の水野実先生「君は小説家になれ」とアドバイスをもらっや。このことが一生を決定したのである。
生涯第二の恩人は小学校卒業後に奉公にでた東京木挽町の質屋「きねや」山本周五郎商店の主人である。店主は奉公人に英語学校、簿記学校に通わせた、徳のある人だった。「真実の父」と呼んだ。筆名の山本周五郎は、この恩人の名前だったから、その恩の深さがわかる。
20歳で関東大震災に遭い、山本商店は焼失。周五郎は神戸の須磨、帝国更興信所文書部を経て、1928年浦安に転居し、定期蒸気船で京橋の日本魂社記者として通うが、3時間ほどかかり昼過ぎに到着、遅刻が多くクビになる。浦安は風景が気に入っている。
1929年、児童映画脚本懸賞に「春はまた丘へ」で1位に当選、これは映画化された。
1930年、結婚し鎌倉へ。
1931年、馬込文士村に転居。尾崎士郎、村岡花子、藤浦洸、石田一郎などと交流する。尾崎士郎からは「曲亭」(へそまがり)という名前をつけられる。人が白と言えば黒といい、右と言えば左と反論する。
第17回直木賞に「日本婦道記」で擬せられるが辞退。「もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか。さういう気がします」が辞退の弁だ。文学は文学賞のために存在するものに非ずという堅い倫理観の故であった。その後も「樅の木は残った」で毎日出版文化賞、「青べか物語」で文藝春秋読者賞も辞退している。読者から与えられる好評以上のいかなる賞もあり得ないと確信していた。
1945年に妻きよは不帰の客となった。武家型の忍従の夫人だった。山本周五郎は41歳。
1946年、自宅の筋向かいに住む江戸っ子・吉村きんと再婚。あけっぱなしで明朗。
44歳、45歳頃「純文学も大衆文学もないという足場を確かめた。12,3年かかった。これから、その足場に立って、私の小説を書いてゆくわけである。すべては「これから」のことであるし、時間のかかることであろう、、」
土岐雄三あての葉書「一日五枚以上は、石にかじりついても書こう」と毎日執筆することの大切さを述べている。
人間嫌い。講演は拒絶。園遊会は欠席。「そんな時間はおれにはない。小説家には読者のために書く以外の時間はないはずだ」とい反骨ぶりだった。
1955年以降は、おそるべき力作のラッシュであった。1960年に発表した「青べか物語」は生涯最高と評価された傑作である。「長い坂」と「さぶ」はすぐれた自己形成小説だ。
「要するに「うまく書こう」といふ気持ちから抜けることだ」
「わが人生のもっともよく有り難き伴侶 わが妻きんよ そなたに永遠の幸福と平安のあるやうに 周」
「文壇酒徒番付1963」が貼ってあった。それによると、横綱は石川淳と井伏鱒二。張り出し横綱が山本周五郎と河上徹太郎。大関は吉田健一と壇一雄。
「満足やよろこびのなかよりも、貧困や病苦や失意や絶望のなかに、より強く感じることができる」
「大切なのは「生きている」ことであり、「どう生きるか」なのである」
「人間が一つの仕事にうちこみ、そのために生涯を燃焼しつくす姿。--私はそれを書きたかった」
隣接の山梨県立美術館で開催中の「バロックの巨匠たち」をみる。
万力公園。万葉の動植物の公園。犬養孝の解説が本人の声で聴くことができる。ここには時間を取ってきたい。
公園の一角に立つ甲州の根津嘉一郎の巨大な銅像。鉄道王、根津美術館。
「名言との対話」6月6日。川端龍子「画人生涯筆一管」
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、戦前の日本画家、俳人。文化勲章。
庶子として届けられたことを知り、「俺は龍の落とした子なのだ」として、30歳前から「龍子」の画号を使った。28歳、国民新聞社員として渡米、ボストンで「平治物語絵巻」など日本の古美術に出会う。29歳、帰国後日本画家に転向。30歳、再興日本美術院展に入選し才能が開花。44歳、「堅剛なる芸術の実践」を宣言し、自らの美術団体である青龍社を設立(亡くなるまで37年間運営)。
「目前の刺激に動揺することなく、横路へ外れず、自己の信ずる大道を誠実をもって固く踏んでゆけるように、日常的に心の訓練を重ねる努力がなければ、この自信を高めることは出来ないであろう」
「井戸を掘るように、深く深くと掘り下げて行こうとするもの、一つは泉水のように、そう深くなくとも成るべく広く広く動こうとするものである。自分の場合は浅くとも庭の池のように広く広くという方向にあるのではないか」
筆一管で自己の信ずる「堅剛なる芸術の実践」という大道を強く意識し、仲間をその旗の下に組織化し、小さく凝り固まらずに、大きく展けるように進んで行く。眼前の刺激に迷うことのないように、心の訓練を重ねる努力をした人だ。