「大いなる多摩学会」の総会を髙幡不動信徒会館で開催。

髙幡不動にて大いなる多摩学会の総会を開催。挨拶の日。

  • 理事会・幹事会・アドバイザー会議:冒頭の私の挨拶「一周年。学会報創刊号。大いなる多摩の全体と未来を考えるプラットフォームがこの学会。未来は2030年代。未来の構想を提示。ビッグピクチャー。大多摩学会」
  • 総会(司会は事務局長の松本先生)

・私の副会長挨拶:「髙幡不動。人物記念館の旅。新刊。大いなる多摩32館を訪問。新撰組自由民権運動。文学者。画家・彫刻家。漫画家。実業人の美術館。明治天皇昭和天皇。、、。大いなる多摩人巡礼。、、」

・寺島会長の基調講演:多摩のDNA、、、。

・議事(議長を担当):第1号議案「2016年度事業報告・収支決算」。第2号議案「2017年度事業計画」が了承される。

・研究プロジェクト報告:健康まちづくり産業PJCT。創業支援プラットフォームPJCT。湘南藤沢におけるインバウンドPJCT。ビッグデータ活用による大いなる多摩創生PJCT。

・ワークショップ「TAMA2030」。

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大いなる未来を感じさせる総会となった。

 

「名言との対話」6月10日。田能村竹田「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」

田能村竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日1777年7月14日) - 天保6年8月29日1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。

田能村竹田は江戸時代後期の画家。豊後岡藩医次男。藩校由学館の頭取となる。藩内の農民一揆の際、藩政改革の建言がいれらず37歳で隠退。絵を谷文晁らに学び、繊細な筆致の独自の画風を確立。隠居後南画の第一人者へ。幕末文人画家の代表的な作家。頼山陽らと親交を持ち、詩や書にもすぐれた。59歳で死去。

「近世雅人伝」には田能村竹田と4つ年下の頼山陽の交遊は芸術家の奇蹟であると讃えられている。類い希なる文豪と世にも稀なる画家は会ってすぐに打ち解けて交友を重ねた。比叡山で夏の風雅を味わったときに、竹田が寝言でホトトギスの鳴き声を叫んで大笑いになったとか、山陽が竹田の名品「一楽帖」を奪うなど、二人の交友については逸話が多い。

大分県美術館の「片岡辰市」コレクション展でみた田能村竹田の「稲川舟遊図」の添え書きの中に「吾より古を作す」とあり、竹田の気概に感銘を受けたこともある。
田能村竹田の過ごした旧・竹田壮の近くにある竹田資料館で「筆を用いて工みならざるを患えず、精神の到らざるを患う」(山中人饒舌)という言葉を発見。田能村竹田の絵ができあがるには、対象を見ては直し見ては直しするなど研究に研究を重ねる苦心が込められており、それが完璧な描写になってあらわれるのである。田能村竹田は精神修行者であり、それが優れた絵や詩や書に結実したのだろう。