安岡正篤「易と人生哲学」

安岡正篤「易と人生哲学」(致知出版社)を読了。

易と人生哲学 (致知選書)

・ 易学とは「動いてやまない大自然創造の理法に従って自分の存在、生活、仕事を自覚し創りあげていく道を明らかにした立命の学問である。

・易とは人間、人生、生命などに関する維新を研究する学問である。変化し、停滞しない、これが維新である。

・易とは人間世界の偉大な統計的研究

・易とは運命を宿命にすることなく、立命にもっていくこと。

四柱推命は、年・月・日・時という四柱を並べて運命を研究する。生日が重要。

・易は宿命を探求するのではなく、運命を創開(化成)していく。

・運命の中に宿命と立命がある。自分で自分の運命を創造していく立命が本筋。

・数(すう)は、生命の中にある神秘な因果関係をいう。

・「木」を認識、次に「火」を発見、木と火の存立は「土」が行う。土の中に「金」がある。土から「水」が出て、木を養う。木から火を出し、火は土になり、土は金を産み、金は水を流す。これが発達して十干、十二支となる。

・宿命は立命に向かう。

・両親は二人。十代遡ると百万を超え、三十代遡ると十億を超える。

・運命とは、われらいかにあり、いかになすべきかという義命の学である。

・八観(人間観察法):通づれば其の礼するところを観る(礼拝。尊重するとおろ)。貴ければ其の進むる所を観る(何を進めるか)。富めば其の養う所を観る。聴けば其の行う所を観る。止れば其の好む所を観る。習えば其のいう所を観る(何を言い出すか)。窮すれば其の受けざる所を観る(どういった援助を受けないか)。賤しければ其の為さざる所を観る(何をしないあか)。

・六検(人間検査法):之を喜ばしめて其の守を験す(原理原則を守るか)。之を楽しましめて以て其の癖を験す(かたよる所を観る)。之を怒らしめて以て其の節を験す(しまりかたをみる)。之を懼れるしめて以て其の特を験す(自立性)。之を哀しましめて以て其の人を験す。之を苦しましめて以て其の志を験す。

・易学は、人間学、人物学である。

・天地自然と人間世界の相関関係を英知を尽くしてまとめあげた中国古代の思想の精髄が「易経」。

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宿命、立命、運命の関係を研究するのが「易学」という。中津の横松宗先生が亡くなったときの追悼文集で私は「宿命を使命にかえて」というタイトルで書いた。自分ではどうしようもない環境(宿命)にありながら、その中でよく生きることを自らの使命に転化して、立派に生きた先生を偲んだ。易学でいう立命よりも、使命という言葉を使う方が腑に落ちる気がする。

 

「副学長日誌・志塾の風」170615

・梅沢先生

・小西先生:金沢星稜大学の学長を経験した父上・小西滋人先生を交えて歓談。

・趙先生・杉田先生

・渡辺先生:ホテル講座の件を相談。

・木村先生:ゲスト講師のNHKデジタルコンテンツセンターの原神センター長を紹介される。

・野田先生を囲んで懇談

・野田先生の講義:「人生計画を立てよ」(人生計画、これも立命のことだ)

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  「名言との対話」6月15日。空海「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り」

空海(くうかい宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日835年4月22日))は、平安時代初期の弘法大師(こうぼうだいし)の諡号921年醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。

高野山をひらいたのが空海43歳の816年。それから1200年余。空海は835年に62歳で入定。入定とは「外界や雑念などの一切の障害から解放された、心を静めた瞑想状態」を意味している。空海は亡くなったのではなく、今なお奥の院で永遠に瞑想している。

最澄はあらゆる教えを受け入れたが、体系化には成功しなかった。それがその後の仏教の新しい波を育てたともいえる。法然の浄土宗、親鸞浄土真宗栄西臨済宗道元曹洞宗日蓮日蓮宗などの新仏教比叡山で学んだ僧たちによって起こされた。

これに対し空海密教を独創で細部まで念入りに完成させた。それゆえ弟子たちは怠けてしまったという説がある。空海は「御請来目録」で、「密教は奥深く、文章で表すことは困難であるから、かわりに図画をかりて悟らないものに示す」といい、その手段として曼荼羅を位置づけている。密教は教えを造形で表し、五感で感じることを重視している。それが曼荼羅や、仏像などの美術品になっていく。曼荼羅とは輪円具足、すなわち満ち足りた世界ということ。悟りの内容を図絵であらわしたものだ。胎蔵界大日経により大慈大悲の世界をあらわしたもの。金剛界は混合頂経による智の世界をあらわしたものである。

「自然万物、鳥獣草木は仏の言葉。浄土は心の中にある」

「私たちの心の本質こそ仏の心である」

「心が暗ければ出会うものすべて災いとなり、心が太陽のように明るければ出会うものすべてが幸いになる」

「仏心は慈と悲なり。大慈は則ち楽を与え、大悲は則ち苦を抜く」

高野山は運慶の像や快慶の不動明王などがあり「山の正倉院」と呼ばれている。京都の東寺の立体曼荼羅21体のうち、8体の仏像曼荼羅が展示されている企画展を観たことがある。この仏たちの見事な造形を見ていると思わず拝みたくなるような表情をしている。金剛業菩薩坐像、梵天坐像、帝釈天騎象像、、、。薄暗い中に仏像が配置されあ身近にそれらを堪能できるこの空間では多くの人が感銘と安心を得ている。私もその一人となった。

司馬遼太郎の「空海の風景」、高村薫の「空海」を読んでも、空海は大きくて何か漠としている。空海の人間像はなかなか鮮明な像を結ばない。「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道に在り」とは、人間としての正しい道を歩む人は浮かぶ。そういった人が集団を栄えさせる。そういうようにまずは理解しておこう。高野山を一度訪ずれなければならない。