司馬遼太郎「草原の記」--モンゴルの一人の女性を通して描く、一点の無駄も緩みもない感動の叙事詩。「天は蒼蒼、野は茫茫、風吹き、草低く、牛羊を見る」

司馬遼太郎「草原の記」(新潮文庫)を読了。

モンゴルの一人の女性を通して描く、一点の無駄も緩みもない感動の叙事詩

 「天は蒼蒼、野は茫茫、風吹き、草低く、牛羊を見る」

草原の記 (新潮文庫)

 オゴタイ。

チンギスハンの後継者(第3子)。43歳で即位。ホラズム王国を亡ぼし、中国金王朝を攻め潰し、ロシアへぼ新たな征服事業を開始した。

海のように人柄が大きく、山のように聡明と言われた。

「財宝がなにであろう。金銭がなんであるか。この世にあるものはすべて過ぎゆく」(この世はすべて空(くう)だ)

「永遠なるものとはなにか、それは人間の記憶である」(自分がどんな人間だったかを後世に記憶させたい)

「人間はよく生き、よく死なねばならぬ。それだけが肝要で、他は何の価値もない」(死後の評判こそ大切)

 ツェベクマという女性。(解説の山崎正和は、この世には歴史をものともせずに生きるという、生き方もあるのかも知れない、と語っている)

モンゴル人の歴史がこの女性の人生にある。

1973年、司馬遼太郎は40代の彼女にウランバートルを案内してもらった。17年後の990年に再会。その交流の中でモンゴル人の歴史と人生を知る。司馬遼太郎は大阪外語学校蒙古語科卒。

ツェベクマさん(女性)大正13年生まれ。(司馬遼太郎は大正12年。私の父も大正12年)

大正13年、ロシア領シベリアバイカル湖の近くのブリヤート・モンゴルに生まれた。

・幼時にロシア革命の余波を経験

昭和2年、3歳で両親に連れられて「満州」のホロンバイル草原に逃れる。昭和6年、7歳で満州事変の砲声を遠くで聞く。ハイラル南郊の南屯の高塚シゲ子先生宅に起居。

・「満州国」の西辺に住み続ける

中国共産党の世で青春を過ごす。東京高等師範学校卒の人と結婚し一児をもうける。黒竜江省の軍事政治大学で学び、内蒙古自治区で小学校の先生になる。夫は師範大学、内蒙古大学の教授になる。

毛沢東プロレタリア文化大革命で、少数民族として辛い目に遭う。夫が拉致される。

内モンゴルから脱走し幼女と無許可でモンゴル人民共和国に入り10年間無国籍になる。ウランバートルホテルで働き20余年勤務。10年後に国籍を取得。娘はレニングラード大学の電子工学科に留学。

・定年。夫と26年ぶりに再会、直後に夫は亡くなる。草原でゲルを結び牛二頭を飼って暮らす。「私の(人生)は、希望だけの人生です」」

 

 「名言との対話」6月26日。柴生田稔「社会意識や政治意識が目に立たなくとも、地味で手堅い『自然観照と身辺詠』の中にも、時代の影はおのづから映るのである。」

柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 1991年8月20日)は、日本歌人国文学者

年譜によると、13歳、父の赴任地中国の青島中学校に入学。35歳、長男俊一誕生。87歳、死去、とある。青島中学の校長が私の父・大野清作であり、長男俊一は私の日航時代の上司の課長であり、その縁で亡くなった時に小金井で行われた葬儀に参列した。縁がある。

明治大学にある戦後最高の作詞家の記念館。阿久悠の明治大学文学部の卒業論文和泉式部」の指導教授は柴生田稔だった。つまり阿久悠斉藤茂吉の孫弟子でもあったのだ。

37歳の第一歌集『春山』から。

 布団のかげに小さき頭見えてをりわが頭に似ると君は言ひたまひき

 思い切り子供が泣けば晴ればれとなりてしばらく聞き手ていたりき

 何もかも受身なりしと思ふとき机のまへに立ちあがりたり

最後から2番目に刊行された1982年の歌集『星夜』から。

 新しき床よろこびて幼子の走りやまざる音の聞こゆる

 父の日をわれは忘れて母の日を妻は忘れず忙しき日々
 何をするかわからぬ男に任せゐる一国のことも職場のことも

冒頭の言葉は、「吾々に今一番大事な問題は一草一花の中に造化の神秘などを感ずる事ではなく、吾々の今生きて居る四周、社会、政治の中にあり、作者自身とそれらのからみ合ひの場合場合にあるのだ」といったアララギを批判した論考にたいする反論である。政治、社会などをそのまま詠むのではなく、時代を生きている自分の身の回りの題材を大事にすることが結果的に時代を詠むことになるという論法だ。感情を抑えて自然観照と身辺詠を詠むべきだとする柴生田稔の考えを知って、改めてその歌集を読むと納得する。