リレー講座:海部陽介(国立科学博物館)--「ヒトはどのような生き物か・700万年の進化史から考える」

「副学長日誌・志塾の風」170629

・飯田先生:講座

・志賀先生

・OBの鈴木君

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・金先生・杉田先生:学生案件

 

・リレー講座の講師の海部陽介先生と歓談:国立科学博物館。研究者60、事務60。動物医、植物医、人類、、。人類史研究グループは5人。クラウドファンディング2600万円、、、、、

・14時20分:リレー講座:講師は国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長の海部陽介先生。

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 ・人類史研究は総合科学。

・現在の人類はアフリカで誕生、その後なぜ今のようになったのか? いつ人類が「人間」になったのか? 人間の集団と文化の多様性は、いつ、どのように。なぜ起こったのか?

・人類史の5段階。初期猿人。猿人。原人。旧人。新人。

・初期猿人:手のような足。440万年前にラミダス猿人。アフリカ。

・猿人:アフリカ。二本足歩行。400-300万年前。立ち上がると手が自由になる、ストレスが減る。

・原人:ホモ属。並存。300-200万年前。祖先。石器。肉食。脳のサイズが増加。

・新人:ホモ・サピエンス。アフリカ起源。全世界に拡がった。マラソンが得意。汗をかくから体温を下げられる。北京原人ジャワ原人、フローレス原(1m)。5万年前に出アフリカし世界中に拡がった。ヨーロッパでではクロマニヨン人。絵を描く、おしゃれ、、、現代人のもと。

 

17時半:品川の大学院で運営会議。

 

「名言との対話」。6月29日。伊沢修二「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」

 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体伊澤、1851年(嘉永4年)6月29日1917年大正6年)5月3日)は明治時代日本教育者文部官僚。近代日本の音楽教育吃音矯正の第一人者。

伊沢は明治初年の「師範教育、音楽教育、体操教育、聾唖教育、植民教育、国家教育、吃音矯正等」、各種教育事業のすべての単独で創立したか、深く関係しているという、独創的な教育実践家であった。 東京高等師範学校校長。体操伝習所主幹。東京音楽学校初代校長。文部省編纂局長。東京聾唖学校校長。国家教育社社長。台湾総督府民政局学務部長。貴族院議員。楽石社社長。こういう経歴をあげてみると、一人のとは思えないほどの領域で創業にあたったことに驚きを覚える。5年間にわたって師範教育の開拓者であり、ブルドーザーであった伊沢は、師範教育の目的を知識の獲得と知識の伝達にあると考えて、組織を改変している。

「智戦力闘の処世に要用なる、あたかも車の両輪の如く」不可欠であり、体育は「全国の元気を振作せんことをこいねが」い、体操伝習所を設立した。

音楽教育の面では、「君が代」、蛍の光」、「蝶々」などの唱歌を定めた。「てふてふ、菜のはなにとまれ、、、」で始まる「蝶々」については歌詞にも関与している。音楽は児童の身体の健康と徳育上の効果が大きいことを強調し、音楽教育を独力でもって設計し、構築した。31歳で文部省に戻った伊沢は森有礼大臣のもとで標準的な教科書の編纂にあたる。聾唖教育に関与した伊沢は、研究を重ね、聾唖者の矯正に成功し、神業と言われる。

文部省内の意見不統一を公開の席であばいたという理由で非職となった伊沢は、国家教育者で時流をつくっていく。「優勝劣敗の世界において、各国互に相戦ふ武器は教育より外にない」とした。

清国から割譲された台湾において伊沢は「外形を征服すると同時に、別に其精神を征服し、、、、日本化せしめるべからず」とし、国家教育を輸出する。台湾における教育は日本語によっておこなうという基本原則を採用した。台湾の日本化は、「教育者が万斛の精神を費し、数千の骨を埋めて、始めて其実効を奏すべき」とし、土匪の脅威に立ち向かっていく。混和主義による弾力的な現実主義であった。命がけの仕事であった。台湾では日本語がいまなお盛んであるのも、伊沢修二の計画と実践の賜物だったのである。台湾に記念館がある。

貴族院議員になった伊沢は、67歳で没するまで20年間を廟議の人として過ごす。学制研究会を組織し、清国賠償金から教育費として1千万円を獲得する。
伊沢は再び東京高師の勅任校長となるが、激務の中で病に倒れ、やむなく辞職する。時に50歳。

「凡そ天地間に無用の者を助けて置く理由は無い。、、然らば生きてをるといふには其れだけ任務、則ち大命といふものがある筈である。、、唯此大命に従って生活すべし」として伊沢は信仰の人となった。
その伊沢は吃音矯正事業に取り組み楽石社を設立する。没した翌年に開かれた創立15周年記念会では、矯正者総数は5367名に及んだと報告されている。中国での事業も成功し、「神か仙かほとんど人に非ず」とまで激賞された。

強靭な体力、不屈の意志、異常な才幹、緻密な頭脳の独創の人であった。台湾総督をつとめた弟の多喜男は「精力絶倫の兄は、ほとんだ3−4時間しか睡眠をとらず、次から次へと前人未到の境地を切り拓いて行った」とその超人ぶりを語っている。67歳で没した伊沢の葬儀には2000人の会葬者があった。

伊沢は教育に関するパイオニアではあったが、性格が強く、対立を起こし、途中で後任に仕事を託し、自らは新しい課題に挑戦していった。後に大臣にも大学総長にもならなかったのは性格の故だった。

 信州高遠藩の下級武士の家に生まれた伊沢は出郷にあたって「万難千苦を嘗め尽くし、業若し成らずんば、異郷に客死するもうらむべきにあらず」と志を父に向かって述べている。そしてその志のとおりの軌跡を歩んだ。一人の人が生涯においてなし得る限界に挑戦したともいえる。まさに万難千苦をなめ尽くした。その志や見事だ。