村井重俊『街道をついてゆく--司馬遼太郎番の六年間』(朝日文庫)

村井重俊『街道をついてゆく--司馬遼太郎番の六年間』(朝日文庫)を読了。

 『街道をゆく』は1971年から週刊朝日で連載がはじまり、亡くなる1996年までほとんど休みなく続いた。47才から25年間、毎週16枚の連載で、文庫本は43冊になった。

「街道はなるほど空間的存在ではあるが、しかしひるがえって考えてみれば、それは決定的に時間的存在であって、私の乗っている車は、過去というぼう大な時間の世界へ旅立っているのである」

この本の編集者は25年間で5人、著者の村井は最後の担当者だった。

街道をついてゆく 司馬遼太郎番の六年間 (朝日文庫)

街道をついてゆく 司馬遼太郎番の六年間 (朝日文庫)

 

この本では国民作家・司馬遼太郎の人間味が描かれている。そこに焦点をあててみたい。村井による司馬遼太郎観察である。

・司馬さんは意外にわがままなのだ。

・司馬さんの原稿は万年筆で書かれるが、赤や青、緑色のマジック、ボールペン、色えんぴつなどで推敲を重ねる。

・司馬さんのはなしはいつもわかりやすかった。リアリティがあり、ユーモラスで、聞いていると心が拡がるような、明るさがあった。

・司馬さんは土木が好きなようだった。

・必ずなるよ。(「日本は本当にだめになるんでしょうか」)

・司馬さんは意外に料理ができた。

・68才の司馬さんは、書生としての基本姿勢を大切にしていた。

・夫妻は毎日、散歩する習慣がある。

・遺跡をたずね、遺物をスケッチし、写真を撮り、野村さんの話を小さなノートにまおとめていく。

・カニアレルギー

・大きな旅の場合、司馬さんは事前にノートをつくる。、、「資料を集めたり、調べるぐらいおもしろいことはない。(KOKUYOのCampus)

・「七度になると寝込み、八度以上になれば、ちょっと照れくさいが---遺言を考える」

・偏食の司馬夫妻(カニ、鶏は食べない)

・「、、雅子さん、日記をつければいいと思うな。貴重な資料になりますよ」(皇太子妃)

・この辺りの粘りが、司馬さん独特のものでもあった。ただの世間話が『街道をゆく』の一章ににまでなっていく。

・「高校三年生」もそうだし、「朧月夜」も知らないようだったのには驚きましたね」(安野光雅

・「ひょっとしたら性癖かもしれない。、、、ここは元はなんだろうということが気になってしまう」

・「大坂外語に行っているときは、外務省の下級の役人になって、どこか辺境の領事館に勤めたいと思っていたね。そして三十になったら小説を書きましょうと」

・司馬さんは相撲ファンではあった。ひいきは断然、旭富士たっだ。

・旧弘前高校を受験し失敗している。「自分の聖蹟だと、弘前と高知が狙い目だと思ったんだな。高知はなんとなく野蛮そうなので、弘前にしました」

・相当の負けず嫌いなのだ・

・司馬さんは宮崎アニメの大ファンだった。・

アレルギー性鼻炎に加え、座骨神経痛にも苦しんでいた。

・「戦後の日本の繁栄は終わったと思った方がいい。これからは大国などとはいわず、世界の片隅で日本という国がひっそりと暮らせていけばいいんです」「あとはよき停滞、美しき停滞をできるかどうか。これを民族の能力をかけてやらなければ生けないんです」「ちゃんとした人間が上に立てば、なんとかなるんです」「日本は再び敗戦を迎えた」

・旅に出る前、いつも司馬さんは背筋をのばした。「さあ、行きましょうか」

 

 

「名言との対話」7月4日。中谷宇吉郎「すべての事物を、ものと見て、そのものの本体、およびその間にある関係をさぐるのが、科学である」

中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7月4日 - 1962年(昭和37年)4月11日)は、日本物理学者随筆家位階正三位勲等勲一等学位理学博士京都帝国大学1931年)。北海道帝国大学理学部教授北海道大学理学部教授などを歴任した。

雪は上層で中心のコアができて、それが重力で落ちてきながら次第に低層の気象条件の影響を受けて外へ成長する。雪の結晶は実に美しい。そして気象条件によってあらゆるタイプの結晶が生まれる。宝石のよう。さまざまな形。蝶々。水晶のよう。おとぎの国の宝物のよう、、、。この神秘の解明に中谷は魅せられたのだろう。

「一見迂遠な様に見えても、実際は案外早道であるというのが、本当の基礎研究であります」

「雪は天から送られた手紙である」

「なにかをするまえに、ちょっと考えてみること」、それが科学的であるということだ。

2000年に朝日新聞が「この1000年の優れた日本の科学者」を問うた読者投票を行ったところ、中谷宇吉郎は6位だった。読売新聞の「読者が選ぶ21世紀に伝える「あの一冊」」の投票では、「雪」が「日本の名著」の3位に入っている。

東大で22歳上の寺田寅彦(1878−1935年)に師事する。23歳でここで理論物理学から実験物理学に進路を変更する。二人の関係は、夏目漱石寺田寅彦との関係に似ている。寺田の名言「天災を忘れた頃にやってくる」は人口に膾炙している。そして「科学で大切なことは役に立つことだ」との寺田寅彦の教えにしたがって、問題解決型の研究に従事した一生だった。問題解決の要諦はやはり「関係」にあった。