宇野千代「生きていく私」--4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方。

宇野千代「生きていく私」(角川文庫)を読了。

 自由奔放に99年の人生を生きた宇野千代の自伝。85才の時の執筆だ。

4回の結婚、13回の自宅建築、、、。人生を肯定した楽天的生き方に感銘を受ける。

生きて行く私 (角川文庫)

生きて行く私 (角川文庫)

 

以下、人生観と仕事観。

・(失恋)いつのときでも、抗うことなく、自分の方から身を引いた。

・泥棒と人殺しのほかは何でもした。

・小説は誰にでも書ける。それは、毎日毎日坐ることである。

・私はいつでも、自分にとって愉しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして全く忘れるようになった。これが私の人生観、、、

・私の書くものは、ほんの僅かしかない。とことんまで手を入れるのが癖であるから、それほど、可厭になるものは書いていない。

・私は、どんなときでも、どんなことでも、それが辛い、苦しいこととは思わず、愉しい、面白い、と思うことの出来る習慣があった。

・私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に、体ごと飛び込んで行く。

・何ごとかに感動すると、すぐに行動しないではおられないのが、私の性癖であった。

・何事かをし始めると、狂気のようになるのが、私の性癖であった。

・何でも面白がるのが、私の癖であった。

・私は12、3年前から、足を丈夫にするために、毎日、1万歩歩くことを始めた。

・一かけらの幸福を自分の体のぐるりに張りめぐらして、私は生きていく。幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、下手な人とがある。幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っている。

・幸福は伝染して、次の幸福を生む。

・人間同士のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。、、、幸福は幸福を呼ぶ。

・小説を書くこと、きもののデザインをすること、、、どちらの仕事の内容も、それまでには全くなかったものを、新しく発見し、切り開いて行くと言うことでは、少しの違いもない。

・若さの秘訣というものがあるのかどうか、、好奇心が旺盛である。、、、素早い行動、、、。男たちへの憧憬、、、

・「人の世はあざなえる縄の如し」と昔の人も言ったが、誰の手が、その縄をあざなうのか、知ることも出来ないのである。

・私には年齢と言う意識がなかった。

・自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標ではないか、、。

交流があり66才で逝った平林たい子は、「私は生きる」と言ったのだが、99才という長寿の宇野千代は「生きていく私」と言う。宇野千代の66才の時から84才までは、214ページから373ページまでだ。人生のページというものがあるとしたら、213ページの平林たい子と、373ページに加え、さらに15年分は132ページであり、宇野千代の人生は505ページという盛大なものになるという計算になる。実に平林たい子の2.4倍の人生を生きたことになるのだ。まさに「生きていく私」というタイトルそのままである。

「角川文庫版に寄せて」(平成8年新春)には、この正月で数えの百才になったとあり、あと4年ほど生きれば、、、明治、大正、昭和、平成と生きてきて、その上さらに21世紀が見たいとは我ながらなんとも呆れたものではないか」と書いている。宇野千代はこの年1996年(平成8年)に天寿を全うしている。最後まで元気だったということになる。

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夜は知研究の八木会長と根岸さんと、南大沢で飲み会。

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「名言との対話」7月12日。西竹一「「We won.」

 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本陸軍軍人華族男爵)。最終階級陸軍大佐。愛称・通称はバロン西バロン・ニシ、Baron Nishi)。1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技金メダリスト

府立一中では小林秀雄迫水久常、陸軍幼年学校では辻政信と同期であった。華族だったこともあり、西は乗馬を好み、騎兵を選ぶ。そして陸軍士官学校を卒業する。

 欧米出張中に西はイタリアで名馬・ウラヌス号と出会い、自費で購入する。1932年のロサンゼルスオリンピックでは馬術障害飛越競技で優勝し、金メダルを獲得する。このとき、ウラヌスは自分から後足を横にねじって障害をクリヤした。この優勝インタビューで西が答えた言葉である。Weとは自分とウラヌスを意味していた。この言葉は人々に感銘を与え、西はバロン西(男爵)と呼ばれ、欧米の社交界とアメリカで排斥にあっていた日系人の人気を集めた。西はロスアンゼルスの名誉市民にもなっている。

後に馬事公苑で余生を送っていたウラヌスに会いにいく。このときウラヌスは西の足音を聞いて狂喜し、首をすり寄せて、愛咬をしてきた。生前の西は「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」とも語っていた。

栗林中将率いる硫黄島での戦いで攻撃したアメリカ軍は「馬術バロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけたが、西は黙ってこれに応じなかったという証言がある。クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」にも西は登場しているが、残念ながらそれには私は気がつかなかった。

私(I)が勝ったのではではなく、私とウラヌスの我々(We)が勝ったと西は優勝インタビューで答えた。最高の舞台に立ったときの西竹一の言葉が、西伝説を生んだのだ。