土門拳記念館再訪

  昨日、講演した菅原制作所の社長と常務の車で酒田市内を案内していただく。

 土門拳記念館を再訪。「昭和のこども 19人の写真家たち」展をやっていた。

木村伊兵衛入江泰吉土門拳、緑川洋一、田沼武能、が知っている人だ。

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 「弁当を持ってこない子」1959年5月。土門拳

「弁当を持ってこない子は絵本を見ている。年頭を持っているこどもたちは何かの表紙で笑っても。何も関係ないかのように絶対にそちらを振り向かないのだ。」

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 紙芝居。こういうこどもの一人だった。f:id:k-hisatune:20170728054802j:image

 痩せている。

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 土門拳は24才からの2年間の商業写真家の内弟子時代に、写真の雑誌、単行本など500冊を超える本を読んで独学で写真を勉強している。

高村光太郎土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を、、、、。」

48歳「使命感みたいなものに駆り立てられて憑かれたように広島通いをするようになったという点で、その日々はぼくの生涯にとって忘れがたい日となった」

「写真の鬼」「撮影の猛者」、、。

1960年の『筑豊のこどもたち』はザラ紙、100円。10万部のベストセラー。

展示をみると、土門拳はやはりメモ魔だった。こういうメモが写真論やエッセイ本になっていったのだろう。

 

帰りの機内で土門拳『死ぬことと生きること』(みすず書房)を読んだ。内容は明日にでも記したい。

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土門は画家志望であったが、仕事を転々とする。母が24歳の時に写真場の内弟子に世話をしてくれ、それが終生の仕事となった。親友の水澤澄夫によれば、厳しく指導した名取洋之助というカメラマンは土門にとってこの上ない師匠だった。この名取とは、雑誌「LIFE」の宇垣外相の写真掲載で袂を分かつ。

戦時色が強まる中、土門は仏像と文楽というテーマに打ち込んでいく。室生寺から始まる古寺巡礼と、特に日本文化の宝とも言うべき人形の文楽は1941年から43年頃に没頭する。

戦後、フリーになった土門はなにげない「日常」をモチーフとした写真を推奨し、子供の写真などを撮るアマチュア写真家を励ましている。土門はスナップ写真の名手だった。それは写真集「江東のこども」を見れば了解きる。

土門の仕事の中では、人物写真も優れている。志賀直哉谷崎潤一郎高見順会津八一、梅原龍三郎尾崎行雄などの顔写真を撮っているが、いい顔、立派な顔という意味で、土門は志賀直哉の顔を挙げている。

その後、土門は社会派に転ずる。砂川闘争、原爆ドームや被害者を描くヒロシマ、。報道写真家として活躍する。「ヒロシマ」では毎日写真賞や東ベルリン国際報道写真展金賞を獲得している。
1960年には写真集「筑豊のこどもたち」を刊行し、終戦直後の石炭の没落の中、ボタ山で遊ぶ子供たちを活写している。この作品は以前訪ねた酒田の土門拳記念館でもっとも印象に残った写真集だった。私たちの子供の頃の様子、兄弟や友達の姿を彷彿とさせる懐かしい写真集だった。

しかし、仕事に脂がのってきた50代を迎えた土門は軽い脳出血に襲われる。これ以後、土門は古寺、仏像にのめり込んでいく。
土門の写真の特徴はライティングにある。光を局部にあてて対象の本質を浮かび上がらせるという独特の方法である。
1968年の50代の終わりに脳出血をし、車椅子での撮影を余儀なくされる。念願にの「雪の室生寺」を撮ったのはこの頃だ。
54才では豪壮で壮麗な大判の「古寺巡礼」の第一集を刊行する。このシリーズは第五集で完結するが、それは66歳の時である。ライフワークとなった「古寺巡礼」では、菊池寛賞を受賞。67歳になって今度は室生寺をカラーで撮影する。

「ひとりの日本人のみずからの出自する民族と文化への再認識の書として愛惜の書として世に残すことができた」

「被写体に対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そしてときには語りかけながら被写体がぼくを睨みつけてくる視点をさぐる。そして火花が散るというか二つの視点がぶつかった時がシャッターチャンスである。パシャリとシャッターを切り、その視点をたぐり寄せながら前へ前へとシャッターを切って迫っていくわけである」(「車椅子からの視点」)

「造形物であるからといって、形に捉われては駄目だ。仏像の精神をまっとうに追及することが必要なのである。」(「仏像を撮るには」より)

母なる室生寺、別名は女人高野は空海が再建した寺である。土門にとってこの寺は古寺巡礼の原点であり、そして最後の「絶写」もこの寺だった。40数年間何十回も通い続けた。この寺の弥勒堂釈迦如来坐像の弘仁仏は天下一の美男だ。土門は「これでいい」というところまでとうとう行けなかったと述懐している。

70歳では朝日賞、仏教伝道文化賞を受賞。

土門は終生、日本と日本人を追いかけた。豪壮で強いもの、そして日本的であるもの、そういうものを土門はテーマとして追及した。以下、35年間にわたって古寺巡礼を続けてきた土門拳が好きなものを挙げる。一度は訪ねてみたいものだ。
建築では懸崖造りの三仏投入堂薬師寺三重塔、室生寺五重塔高山寺石水院。
仏像は、木像では神護寺本道の薬師如来、金剛仏では薬師寺東院堂の聖観音、石仏では臼杵の磨崖仏群。

1979年、70歳で脳血栓。その後はカメラを持つことは出来なくなった。
74歳で、故郷坂谷土門拳記念館が開館する。1989年、」80歳で永眠。

宗教学者の山折哲夫は、「土門拳の肉眼はレンズを通して、レンズを超えるということだろうか。。。氏の肉眼がレンズそのものと化し、レンズの鏡面に氏の肉眼が内在しているのである。」と分析している。

横尾忠則は、「芸術家は自らが選んだ対象を主題にする場合、その対象といつしか一体化していくものである。そしてその対象の中に自己を探ろうとするのだ。土門拳の場合でいえば仏像の中に自己の本体を発見するそんな想像の旅が彼の運命が求めたものであったのではないだろうか」という。
これこそまさに巡礼である。芸術家は巡礼者であろう。

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  本間美術館が休館。清遠閣を見学。『漫画で読む「公益の祖--本間光丘』を購入。

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昼食後、庄内空港から羽田空港へ。

 

  「副学長日誌・志塾の風」170727

・ 大学院運営委員会に出席:カリキュラム。

・徳岡研究科長:人事案件

 

 

「名言との対話」7月27日。山本有三「「たった一人しかない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら人間生まれてきたかいがないじゃないか」

山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年明治20年)7月27日 - 1974年昭和49年)1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本小説家劇作家政治家

山本有三は、劇作家、小説家、教育者・文化人、政治家という4つの活動を行い、それぞれの分野で一流の価値ある仕事をしている。

第六高等学校合格後の父急死による断念、第一高等学校学科試験合格後の体格試験での不合格を経て、第一高等学校文科に入学したときは、すでに満22歳になっていた。一高での落第、2年終了で東京帝国大学逸文学科入学などで、同級生に多くの優れた友人を持つことになった。近衛文麿土屋文明芥川龍之介菊池寛久米正雄、新関良三、三井光弥、、、。落第を含む変則的な人生にも、そういう効能がある。そして有三は生涯にわたってその縁を生かしている。

二度目の結婚で得たはなは、近代的なセンスと文学的素養があり、有三にとって理想の人であった。はなは生涯にわたり、妻と秘書の一人二役を精魂込めてはたした。はなの助力がなかったら、あれほど幅の広い勝利は不可能だっただろう。

山本有三の思想の核には、自然的事実としての生存闘争と、道徳的善の要求がある。題材に応じて戯曲と小説に書き分けたのである。

有三の教養小説は、人間の外的成長に内的発展をからませて、主人公が何らかの人生の知恵に到達する過程を描く小説だ。「路傍の石」、「真実一路」などがそれである。現実の社会を一大劇場に見立てて、普通の人の群像を登場させ、人生の喜怒哀楽を描く。左右のあらゆる主義も単なる社会現象として著述する視野の広い作風である。

明治大学文科専門部文芸科長に招聘されたとき、教授陣は山本有三の厚みのある人脈が動員されている。里見弴、岸田国士横光利一土屋文明久保田万太郎小林秀雄獅子文六萩原朔太郎、谷川徹郎、長与善郎、舟橋聖一今日出海、、、。山本は「人をつくる」「人物を養成する」「子どもを育成する」という表現を好んだ。教育方針は「作家を作る」ために、「自ら会得させる」「芽を伸ばさせる」ことを重視し、見学、座談という体験学習にも力を入れた。

国語改革についても功績がある。GHQが日本語のローマ字化を目指す案を持っていたが、山本有三に「日本語の問題は自分たち日本人の手で解決するから口を出さないでもらいたい」と拒絶している。「国民の国語運動連盟」は、日本国憲法の口語化を実現した。国語審議会の「常用漢字表」の主査委員長となり、「当用漢字表」案を提出する。当用とは「当面使用すべきもの」という意味である。参議院議員に出馬したのは「国語研究所」をつるためだった。。「新しい国家を築きあげてゆこうとする時、文化人みずからが引っ込んでいて、どうして、本当の文化国家を建設する事ができましょう」。参院では「緑風会」を田中耕太郎らと結成している。有三命名のこの名前は、参院を理性の場にしたいという念願ならであった。仮名交じり文ではなく、漢字交じり文を主張し、耳で聞いてもわかる文章、文体を作りあげようとした。また山本有三は国語教科書を責任編集している。山本有三は文壇的存在よりも、社会的存在になっていく。

「今ここで死んでたまるか七日くる」が辞世となった。猛烈な仕事師であった山本有三らしい。戯曲「米・百俵」では、小林虎三郎を題材に「人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ず盛り返せるに相違ない」ことをテーマとしている。冒頭に掲げた言葉は 『路傍の石』の中の言葉である。山本有三は幅の広い活動を生涯行ったが、私の見るところ、この人は教育者であった。教育者的資質が、様々な方面に生かされたと思う。