備前焼きの藤原啓記念館(FAN美術館)

7月26日から8月8日にかけて、酒田、岡山、高崎、草津軽井沢と旅をして、その都度人物記念館を訪問したのだが、それぞれについて書き留めていない。今日辺りから、ぼつぼつ書いていこう。

 

岡山の藤原敬記念館。

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藤原啓(1899ー1983年)は、備前焼人間国宝

備前市の瀬戸内海の入り江を展望できる絶景の場所にある。まず、その景色を見ながら、啓の息子の藤原雄の茶碗でお茶をいただく。

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人間国宝は、それぞれの分野の現役が一人だけが指名される。備前焼の第一号は現代備前焼きを始めた金重陶楊だ。陶楊の作風はきびしく精悍である。第二号がその弟子で古備前を評価した藤原啓で、その作風はおおらかで素朴である。第三号はろくろの神様と呼ばれた山本陶秀(1906ー1994年)。第四号は藤原雄である。その息子の藤原和(1958年生)には巨大作品が多い。啓の作品は単純・明快・豪放であり、雄の作品は温和で剛胆である。

藤原啓は1899年(明治32年)現在の備前市稲穂に生まれた。少年時代から文学を志望し、俳句や小説に根チュウした。同郷の正宗白鳥に対する憧れ、賀川豊彦の「一粒の麦」に刺激をうけて、19歳の時に代用教員の職を投げうって上京する。

東京では人生を知ろうとする思想の遍歴をの20年間であった。若い詩人たちとの交遊、博文館での編集の仕事を通じて知り合った文壇の人たちとの交流、そして絵や音楽も学んでいる。しかし文学の道を進むという志は果たせないまま、昭和12年に38歳の藤原啓は東京を去って故郷に帰る。

故郷では正宗白鳥の弟の惇夫の勧めで46歳から備前焼きを始める。特殊な勘と技術を要する備前焼きは、金重陶楊の指導によって、しだいにものになっていく。藤原啓は遅咲きである。

藤原啓の作風に対しては、「厳しさと甘みが渾然」というアメリカ人のクレーソンの評価がある。井伏鱒二は藤原啓を「抒情詩人から陶芸家に一転した」と言い、詩魂があるとしている。

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備前は古くから日本有数の焼き物の産地であった。千年前の「延喜式」に明記されている。桃山から江戸にかけて紹鷗、利休、遠州ら茶人が輩出し、そのために茶器が尊重された。江戸の中期・後期には多様化と量産化に傾き、備前焼きは芸術性を失って低迷期に入った。その流れを再興したのが、四人の人間国宝たちである。

ところで、この藤原啓記念館は、2017年6月にオープンしたFAN美術館の一部であった。藤原のF、アートオリンピアのA、人間国宝のNからとった名前である。一度訪れたことがある湯河原の人間国宝美術館の山口伸広理事長がオーナーらしい。この人は不動産事業を行っている実業家だ。東館、本館2階は人間国宝美術館、平田郷陽卑弥呼などの人形、村上隆草間弥生ピカソの焼き物、なども観賞した。L館ではベンツのアウマートシリーズがあった。横尾忠則がペイントしている。

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アートオリンピアは、アートのオリンピックで、2015年には世界52ヶ国4186名のアーチストが参加。入選作品は東京、ニューヨーク、パリに募集拠点を設けた。各拠点で80位以内に入れば世界で作品が発表される。実行委員長は山口伸広氏だ。一般部門の金賞には12万ドル、銀賞は3万居ドル、銅賞は2万ドルの賞金がでる。学生部門の金賞には2万ドル、銀賞は1万ドル、銅賞は5千ドル。

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「副学長日誌・志塾の風」170808

グローバルスタディーズ学部の学部運営委員会。

現状と課題がわかるので毎回出席している。

・教務:カリキュラム改革。AEP。初年次教育。TOEIC。

・入試:オープンキャンパスに女子が大幅増加。

・就職:少しブレーキ。

・学生:離学率?

・卒業式:学長室・経営情報とグローバルの三者で時間調整(高野課長に電話で説明)

 

 

「名言との対話」8月8日。植草甚一「一冊でもよけいに外国の本を読んで、出来るだけ覚書をつくり出来たら、いつかこれを整理して、まとまったものにして残したいのが私の唯一の野心である」

植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年明治41年)8月8日 - 1979年昭和54年)12月2日)は、欧米文学、ジャズ映画評論家通称“J・J氏”。

 世田谷文学館で「植草甚一スクラップ・ブック」展を見学。植草甚一は、映画、ミステリー、モダンジャズ(48歳から)、カウンター・カルチャーなど、団塊世代サブカルチャーの先輩、先生の様な存在だった。1960年代後半から70年代にかけて「植草流」とでも呼ぶべき特異なスタイルを築き活躍した不思議な人だ。この名前は様々な雑誌の中で見た記憶がある。おしゃれで教養の深い饒舌なおじさんという印象を持っているが、この人のことはよく知らなかった。

企画展は植草が経堂に住んでいた縁で、240点のスクラップブック、ノートなど約240点、草稿や原稿50点、日記30点、その他図書・雑誌・写真など総数1200点に及ぶ遺品が世田谷文学館に寄贈された。4万冊の蔵書は古書店が買い取った。その一部を展示する企画展である。映画、文学、音楽、コラージュ、雑学、ニューヨーク、ライフスタイルに分けてコレクションが展示されている。

「ハヤカワポケットミステリー」の編集、「映画旬報」の編集、「スイングジャーナル」でのジャズ連載、テレビ出演などを経て、本格的な単行本「ジャズの前衛と黒人たち」(晶文社)を書いたのは59歳になっていた。その後、1969年の「平凡パンチデラックス」での植草甚一特集、後に雑誌「宝島」になる「ワンダーランド」の責任編集などを手掛けている。これだけ海外の情報を伝えながら海外には縁がなかった植草は66歳で初めての海外旅行で、ニューヨークに3か月半滞在し、味をしめてその後は毎年のように出かけている。その前に植草は朝日カルチャーセンターで写真を基礎から学んでいる。69歳では、ベストドレッサー賞を受賞、亡くなったのは1979年、71歳だった。

植草の映画評論は、テクニックを重視しディテールに着目するスタイルだった。試写を見ながら「速記帳」に書き込み、それを「試写メモ」に整理し、全体像が固まったら「原稿」にしていく。ペラの小冊子に映画を観ながら、気が付いた点や台詞を書き込み、イラストまでも描いている。原稿を書くためのスクラップブックにも、黒、青、赤のボールペンで書き込みをしたり、記事を入り込んだりしている。原稿用紙に書いた文字が素敵だ。「植草甚一コラージュ日記・東京1976」(平凡社)を読むと、独特の文字で毎日の日常が細かく記されている。
同時開催されている「コレクション展 特集 戦後70年と作家たち」の中に、「不老少年座談会」の雑誌記事があった。1976年の「GORO](小学館)だ。そこでは、若者に人気の著名人が集まっていた。紳士・梅田晴夫(55歳)、巨匠・横溝正史(74歳)、識者・会田雄次(60歳)、教祖・植草甚一(68歳)という人たちだ。楽しい座談会の様子が載ってるのだが、内実はそうでもないらしい。この「コラージュ日記」の6月23日には、この座談会のことが書いてある。「会田さんにホテル(赤坂のホテル・ニュージャパン)のおしえかたが、いい加減だったせいか、だいぶ遅れ、十時まで話が続いた。部屋をかりて座敷でやったが、コーヒーとかさかさのサンドイッチだけお出したのには驚いた。、、、ハッキリあとで文句をつけた。、、とにかくイヤな座談会だった」とある。この日記は、都市の散歩のお手本だ。どこで何をいくらで買ったか、その内容と道程を細く記してある。朝の起床時間から始まり、その日の天気などもあり、日常生活の様子が目に見えるようだ。

「生涯の映画ベストテン」がある。「愚かなる女」「蠱惑の街」「吸血鬼」「三十九夜」(ヒッチコック)「大いなる幻影」(ジャン・ルノワール)「自由を我等に」「歴史は女でつくられる」「戦火の彼方」「地下鉄のザジ」「カサノヴァ」。

「無関係な切り抜きをくっつけ、それが別なものに変化していく快感。」

「表紙をひと目みて感じてしまう本は、たいがい良い本で、これはレコードを買うときにもあてはまる。

「ぼくは散歩と雑学が好き」

植草甚一は、一生勉強を続けた遅咲きの人だ。48歳からモダンジャズにのめり込み、65歳の初の海外旅行には朝日カルチャーセンターで写真を学ぶ、そして関心がどんどん広がっていく。その成果を若者向けの雑誌で披露していく。その結果が、雑学の大家としての姿に結実していく。

植草甚一は雑学の大家である。71歳で亡くなるまで、エッセイ集をはじめとする数十冊の本を出し、若い世代から「ぼくらのおじさん」として親しまれ続けた。全集である「植草甚一スクラップ・ブック」は晶文社から刊行されている。全42巻。氏の遺した4000枚近いジャズのレコードは、なんとタモリさんに引き取られた。

まだ東宝で仕事をしていた37歳の時に、「一冊でもよけいに外国の本を読んで、出来るだけ覚書をつくり出来たら、いつかこれを整理して、まとまったものにして残したいのが私の唯一の野心である」と述べた雑学の大家は、有名な東宝争議をきっかけに退社し、それ以降30年余にわたってその野心をエネルギーにあらゆる分野に首を突っ込み、雑学の巨人となって、多くの若者に影響を与えた。