土屋文明--「我にことばあり」。100年人生の模範。

土屋文明記念文学館。

「青き上に 榛名を 永久の幻に 出でて帰らぬ 我のみにあらじ」

70歳の時に詠んだ故郷を想う歌。土屋文明は故郷に帰れぬわけがあった。「博奕に身を持ち崩した挙句、強盗の群れに投じ徒刑囚として北海道の監獄で牢死した」祖父・藤十郎の噂のためであった

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  山村暮鳥群馬町(現在の高崎市)生まれ。「風景」。

山村 暮鳥(やまむら ぼちょう、1884年明治17年)1月10日 - 1924年大正13年)12月8日)は、明治大正期の詩人児童文学者である。40歳で死去。

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 土屋文明は百歳と2ヶ月の人生を歌に捧げた。

土屋文明は明治23年生まれ。野田一夫先生の父上は明治18年生まれで盛岡から二高、東大を経て航空技師になった。私の母の父は明治19年生まれで、東京高等師範を出て、群馬県各地の校長を経て、中国の青島の日本人中学校の校長在職時の講堂での修身の講義中に59歳で脳卒中で斃れている。この3人は、同世代だ。

文明という名前は、日清戦争からナショナリズムへと大きく旋回する曲がり角の時代で、明治の文明開化の落とし物のような命名であった。

文明の初恋の相手は塚越エツ子。小学校高等科の同級生で一番が文明、二番がエツ子だった。文明が中学2年の頃に、エツ子は死んでいる。

85歳の歌。

 姫萩にかけてしのばむ彼の少女ほのぼのとしてただに悲しみも

 墨うすくにじむ習字をただに見ぬ一つ机に並ぶ少女を

小学校高等科の担任教師・関根甚七、高崎中学の国語教師・村上成之が、文明の一生を変える。村上は成東中学からの転任で、搾乳業を営んでいた伊藤左千夫と懇意であった。19歳で上京し、伊藤左千夫に身を寄せる。

 四十六歳の左千夫先生に見えたり四十六歳となりその時を思ふ

第一高等学校への学資は、左千夫と並んで双璧といわれた寺田憲が出してくれた。その恩義を常に感じていた。

 君が家の三代の栄につながり受けて報ゆるなき今日となる

左千夫先生逝去。

 夜の風ははげしく吹き入り先生はかけ衣の下に動くがにみゆ

東京帝国大学哲学科では心理学を専攻している。文明の万葉集研究にあたって歌人たちの心の奥を解明する独特の見方につながっていく。

文明は女子学院から女子英学塾に学んだ塚越テル子と結婚する。28歳。テル子は初恋の人・エツ子の二つ上の姉であった。

 春といへども今宵わが戸に風寒しわがこころづまさはりあるなよ

極貧の体験は歌を生んでいる。

 ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交絶てり

 吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたりき

 炊ぎ煮食ひし年月思ひかへる記憶は一つ食はぬ雨の日

 貧しさはかくも集まるかと見し巷窮乏のはての我は幾年

アララギ」の先輩格の島木赤彦の世話で信州の諏訪高女の校長となる。全国中学校最年少30歳であった。松本高女では人事問題が起こり足かけ7年で信州の教育界から去る。

 国とほくここに来たりれ妻とわれ住む家求む川にのぞみて

 いきどほろし思をせめて墨すりつ閑心に歌書きくらす

 槻の木の丘の上なるわが四年幾百人か育ちゆきけむ

 「鍛錬道」を説く赤彦が亡くなり、アララギの編集は留学から帰国した茂吉に移り、茂吉の幅広い視野と文明の現実的精神でアララギは再出発を果たす。

 病む父がさしのべし手はよごれたり鍍金指輪ぞ吾が目につく

 父死ぬる家にはらから集りておそ午時に塩鮭を焼く

アララギの中興は文明の企画力と組織力に負うところが大きかった。文明は頻繁に地方アララギ歌会へ頻繁に出席する。それが人的交流の場を生み組織の拡大につながっていった。このあたりは知研の運営に参考になる。昭和4年には中津にも出かけている。

平福百穂、中村憲吉、茂吉の家庭の事件での蟄居など昭和8年は深刻な年だった。

 人病にむ人かなしみぬ人ゆきにきこのまがつ年よはよすぎよ今年よ

満州国建国など戦時体制。

 新しき国興るさまをラジオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな

 よろふなき翁を一人刺さむとて勢をひきゐて横行せり

 大陸主義民族主義みな語調よかりき呆然として昨夜(きぞ)は聞きたり

 魯鈍なる或は病みて起ちがたき来りすがりぬこの短き日本の歌に

 

 大伴旅人山上憶良にはま見えねどその歌よめば会へるも同じ

 糟湯酒わづかに体あたためてまだ六十にならぬ憶良か

 

 物もらふ楽しみとして添削す今日は秋刀魚の十有五枚

 時代のことなる父と子なれば枯山に腰下ろし向かふ一つ山脈

「本来の仕事である日本文化向上のための仕事をどんな形で実行していったらよいか」「作歌は我々の全生活の表現であって、短歌の表現はただちにその作者その人となる。」「この新しい事態を諸君がいかに実践して居るか、その生活の真実の表現をこそ吾々は聞かむと欲して居るのである。そこにまだ短歌として開拓されない、ひろい分野が在るやうの私は思ふ」「世の動きに無関心で居るといふ意味ではない。実は運動や討論よりももっと根本的な所に関はろうとするからである」「生活と密着な文学として短歌は滅びない。実際短歌は生活の表現というのではもう足りない。生活そのものというのが短歌の特色。、、その少数者は「選ばれた少数者」の文学。、、」「現実主義(リアリズム)ということに尽きる」

  垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ

土屋文明は、歌人であり、万葉集研究の研究者でもあった。ライフワーク「万葉集私注」は万葉集20巻4500余首の注釈。それまでの学説を踏まえた実証的な研究の上に、歌人らしい鋭い創見を随所に見せた画期的な本である。足かけ8年、仕事に取りかかってから13年を費やしている。

 鉄ペンも得難き時に書き始め錆びしペンの感覚今に残れり

「この私注の最終巻の後記を記すにあたっって、事が終ったといふよりは、寧ろここから出発が始まるやうな心持で居る。、、」という心境になっている。その後も補正の執筆は生を終えるまで続く。三度改版を重ねている。昭和28年にはこの功績で芸術院賞を受賞している。

もう一つのライフワーク「万葉集年表」の完成は文明90歳の春である。36歳でc着手。

 命あり万葉集年表再刊す命なりけり今日の再刊

 乏しきを励まし怠りを耐へ耐へてかすかなる命ここに留めむ

斉藤茂吉は昭和28年に没した。文明63歳。「斉藤先生は天才だ」が文明の口クセだった。

 ただまねび従ひて来し四十年一つほのほを目守るごとくに

以下、晩年の歌。92歳、妻テル子死去。

 ひたすらに医学を信じ頼れども生命のことは学よりひろし

 十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる 

 さまざまの七十年すごし今は見る最もうつしき汝を柩に

 終わりなき時に入らむに束の間の後先ありや有てかなしむ

 九十三の手足はかう重いものなのか思はざりき労らざりき過ぎぬ

 

1890年生。4歳、日清戦争。14歳、日露戦争。33歳、関東大震災。55歳、終戦。61歳、日米安保。70歳、日米安保明治大学文学部教授退職。74歳、東京オリンピック。94歳、文化功労者。96歳、文化勲章(同じ群馬県出身の中曽根総理から)。97歳、俵万智「サラダ記念日」。1990年100歳、文明碑建立。死去。並べてみると100年を生きたことの凄みが身にしみる。日清・日露戦争から、日本の絶頂期までという歴史を生き切った。土屋文明は、明治維新の落とし子のような文明という名前をもらい、その日本文明が関わった近代と現代日本の歴史を一身に体現した人物といえる。「我にことばあり」と信じて生きた。まさに100年人生の手本となるべき人である。

 

歌人 土屋文明』(土屋文明記念文学館編)

歌人土屋文明―ひとすじの道 (塙新書 (72))

歌人土屋文明―ひとすじの道 (塙新書 (72))

 

 

 ガイドの関根みどりさんと。関根さんは昭和2年生まれの90歳。小中学校の国語の先生だったとのこと。軽やかな足取りで驚く。彼女は関根甚七の縁者だった。

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 「名言との対話」8月12日。淡谷のり子「あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ」

淡谷 のり子(あわや のりこ、1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身の女性歌手。日本のシャンソン界の先駆者であり、ブルースと名の付く歌謡曲を何曲も出した由縁から「ブルースの女王」と呼ばれた。

日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット、続く「雨のブルース」「想い出のブルース」「東京ブルース」などでスターダムへ登りつめる。NHK紅白歌合戦では初出場でトリをつとめた。テレビのオーディション番組では、辛口の批評であったことを思い出す。

 「自分から逃げれば逃げるほど、生きがいも遠ざかる。」

レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ。」

「ブルースというものは、だれかが書いて、だれかが曲をつけて歌うもんじゃないの。黒人たちが自分の思いを自分の言葉で、自分のメロディーで叫んだ歌、それがブルースよ。」とブルースの女王は語っている。

歌と一緒に死んでいく覚悟があるという気迫を感じる本物の歌手だった。