法事とお祝いのため、中津到着。

来週の父の17回忌と母の卒寿のお祝いで、故郷の中津に降り立つ。

昼に自宅を出て、電車で羽田へ。羽田空港から福岡空港、そして電車で中津。18時半にやっと着いた。しばらくは親孝行。

途中、電話とメールで雑事をすます。

 

 

「名言との対話」8月18日。伊藤左千夫「吾々が時代の人間になるのではない、吾々即時代なのだ。吾々以外に時代など云うものがあって堪るものか。吾々の精神、吾々の趣味、それが即時代の精神、時代の趣味だよ」

伊藤 左千夫(いとう さちお、1864年9月18日元治元年8月18日) - 1913年大正2年)7月30日)は日本歌人小説家

曲折を経て徒歩で故郷の千葉県成東を出奔し、東京市内と神奈川の牧場で4年間働く。神田、神奈川、市ヶ谷、九段。27歳で独立し牛乳搾取業を経営する。乳牛改良社である。「万が一我が社の牛乳が他の牛乳に劣っているようなことがあれば、我が社は乳牛代金を一切いただかないことを誓います」との広告もある。いかにも左千夫らしい発想である。この時代に次の歌を高らかに詠んだ。

 「牛飼いが歌読む時に世の中のあたらしき歌おほひに起る」

 歌にかかわる論争で軍門に降った4歳年下の正岡子規に師事。左千夫は絶対的人格の持ち主として子規を尊敬していた。子規没後は、根岸短歌会歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となり、島木赤彦、斉藤茂吉土屋文明、寒川陽光などを育成した。また、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」をホトトギスに発表し、高い評価を受けた。左千夫は短歌・長歌新体詩・俳句・写生文・小説・歌論・俳論・随筆・評論・宗教論・茶論などさまざまな分野の多様な文学作品を残している。虚子のすすめもあり、「野菊の墓」を書いている。この小説は何度も映画化されている。子規の死後、積極的な性格と年長者でもあった左千夫は短歌雑誌「馬酔木」を発行する。4年弱の期間に通算32冊を世に送った。終刊後「阿羅羅木」を刊行し、歌壇ではアララギ時代を迎える。晩年には時代の歩みに遅れ、茂吉・赤彦と対立することになる。

「久々に家帰り見て故さとの今見る目には岡も河もよし」

 「九十九里の波の遠鳴り日の光り青葉の村を一人来にけり」

 「夜光る珠は人知る土焼の楽の尊さ世は知らずけり」

「おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く」

 冒頭に掲げた言葉のように、吾々自身が時代であると確信し高らかに宣言し、一つの時代を牽引した伊藤左千夫は、確かに短歌革新において正岡子規から斎藤茂吉土屋文明を繋ぐ時代の役割を十分に果たした。しかし、晩年はその時代の流れに乗り遅れるのである。時代の流れに上手に棹さすことはことは難事である伊藤左千夫50歳の若さで没したのはむしろ幸いだったかもしれない。