司馬遼太郎「断端疾風録」(中公文庫)の下巻を読了。
上巻を含めて久しぶりに司馬史観を堪能した。やはり司馬遼太郎は素晴らしい。
日本は、秀吉から家康、秀忠、家光の時代。
馬を鞭打って駆けるというイメージから韃靼と呼ばれていた女真が、ヌルハチ、ホンタイジを経て、親王ドルゴンが、明を倒した順に代わり「清」を樹立する時代。
この韃靼は明代には遼東と呼ばれていた。清朝では東三省、現在では東北地方と呼ばれている。日本では馴染みの深い「満州」である。
この女真族は50万、60万の人口でしかないのに、億を超える漢人の中華を200年以上に渡って支配した。
平戸の武士で密命を帯びて韃靼に渡った主人公の軌跡が、女真の英雄だけでなく、歴史が避けていく過程と関わりながら生き抜いていく姿を描くことによって、アジアの歴史の壮大なロマンを感じさせる素晴らしい作品だ。
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図書館からの金谷を通る帰り道では、中津の偉人を顕彰した看板を数多く見かけた。この施策、運動は後から、効いてくるだろう。
「名言との対話」。8月20日。高杉晋作「男子というものは、困ったということは、決していうものじゃない」
高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。
下関市の吉田にある清水山の東行庵は高杉晋作の愛人「うの」が谷梅処として出家した庵である。高杉晋作は自らを東行と号していた。高杉は遺骸を奇兵隊の本拠に近い清水山に埋めて欲しいといったが、山県狂介(有朋)はこの地にあった草庵・無隣庵を梅処に贈った。現在の庵は、伊藤博文、山県有朋、井上馨らの寄付で建立されたものだ。梅処は長生きして明治42までこの庵で住んだ。
東行庵の近くに建つ記念館には高杉の影響を受けた伊藤博文撰文の最初の言葉が階段の壁に高杉の写真とともに大きな垂れ幕として飾ってある。「動 如 雷電 発 如 風雨」
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目蓋然として敢えて正視するもの莫(な)し。これ、我が東行高杉君に非ずや。」、この言葉は風雲児高杉晋作の性格や行動を表した言葉である。
高杉は、江戸4回、京阪2回、長崎2回、上海1回と旅を重ねて思想を形成していった。その旅では、信州で佐久間象山、福井では横井小楠に会って刺激を受けた。佐久間からは「外国を自分の目で見なければならない」と教えられ、その後上海に行く機会を得ている。高杉は上海時代の「遊清五録」(航海日録・上海ふん留日録・崎陽雑録・外情探索録・内情探索録)など日記を書き綴っている。晋作は上海で拳銃を二挺買っている。そのうち一挺を下関を訪問した坂本龍馬に贈った。あの龍馬が持っていた拳銃は、高杉の贈り物だったのだ。
「西へ行く人を慕いて東行く 我心をば神や知るらん」と1863年に詠み、それ以来、東行という号を使うようになった。西へ行く人とは西行法師のことで、東行くは倒幕を意味している。高杉は戦争の犠牲者のために招魂場を創設するが、これ以後全国に招魂場ができ、東京にできた招魂場が現在の靖国神社である。
吉田松陰の松下村塾の双璧とうたわれた高杉晋作と久坂玄瑞。高杉は「鼻輪を通さない放れ牛(束縛されない人)」といわれ、久坂は堂々たる政治家であるといわれた。師の吉田松陰hは、晋作は俊邁の才を持つが、頑質にわざわいされて、その優れた有識の天分がおおいかくされているとみた松蔭は、久坂玄瑞に対する競争心へと転化させた。
高杉は自分の墓に次のように書いて欲しいと手紙に書いてあったが、発見が遅れかなわなかった。自分の一生をこのように総括したのだろう。
表
故奇兵隊開闢総督高杉晋作則
西海一狂生東行墓
遊撃将軍谷梅之助也
裏
毛利家恩古臣高杉某嫡子也
翼あらば千里の外も飛びめぐり よろずの国を見んとしぞおもう
人は人 吾は吾なり 山の奥に棲みてこそ知れ 世の浮沈
人の花なら赤ふもなろが わしの花ゆえ くろふする(都都逸)
幕末の風雲児高杉晋作は、「大閣も天保弘化に生まれなば 何も得せずに死ぬべかりけり」と言い、時代の転換期に躊躇なく決断し、果断に実行していった。そして野村望東尼が下の句をつけたように「面白きこともなき世を面白く」と考えており、どのような場面でも取るべき行動は明確だった。「弔むらわる人に入るべき身なりしに 弔むらう人となるぞ はづかし」とも言ったが、奇兵隊総督として江戸から明治も大転換の先駆けとなり、27歳という若さで没したが、不朽の名を残した。