行政マン研修

 公務員研修「図解思考力向上講座」。丸一日。人数は40名弱。

以下、アンケートから。

・図解はとても包容力があります。

・仕事やり方を見直すきっかけになった。

・仕事に対して初心の戻り見つめ直す良いきっかえになっら。

・学校の制度の改正・運用等を伝えるのに有効。相関を明確にして今の自分の責任を改めて認識するいい機会になった。

・いかにものごとの本質や流れを見えていなかったかが浮き彫りになった。図解が本質を追求できることを知るとれも驚きました。

・新鮮。頭をよく使う物だと実感した。

・発想が面白い。次回はより実践形式で学ぶ研修を受けたい。

・関係性や重要度を再確認できた。誰に対して、何の目的で、、。

・図解の応用範囲の広さに驚いた。説明上手は図解も上手と思いだした。

・楽しみながら自己分析できる面白い手法。

・最近、職場の資料も図が多くなる傾向にありますが、ポイントを教わり勉強になった。合意形成に文章よりも図解の方が良いということはとても納得できたので、自信を持ってすすんでいきたい。

・次回は活用方法の事例もうかがいたい。次年度の新規重点事業を考える時期なので、頭の整理ができて大変参考になりました。

・図にすることで、言葉のつながりや物事がとらえやすくなることを実感。

・鳥瞰することで関係性がよくわかった。

・期待以上の成果を得られた。日本史の図解にも興味あり。

・甘かった。日々の考えの足りないことを思いしらされどっと疲れました。税金をいただき身としては毎日、このくらいの深度でものごとを考えなくてはならなかったと反省。実習形式で先生にリアルタイムで添削してもらえ、ヒントがいっぱいで勉強になりました。

・次回は、テクニックも。ファシリテーショングラフィック(議論の円滑化)も。

・図解には創造力と想像力が必要。自分の思考のクセもでる。

・自分の業務が他の部署や最終受益者とどう関わっているかを再考するきっかけになった。手で描くことで、深く考えながら試行錯誤できた。

・税金をトップの承認を得て使わせてもらっていることを改めて再認識する良い機会となった。

・図解することで、最終的な目標がクリヤになることがわかった。作成した図は他の同僚とシェアすることも有効。我々は目的と手段を混同しがちであるので、ゴールは何かを意識しながら日々を過ごしたい。

・文章はごまかしがきくというのは意外。いざ、図解してみるとなりほど!

・自分の仕事のレベルを上げるきっかけになりそうなので、しっかり身につけたい。

・文章では人それぞれの理解が違っているのでトラブルになるというのはショックだったが、実際の例題で体験すると納得した。

・文章はたった2行でも人によって受け取り方が違うことにハッと気づかされました。

 

「名言との対話」7月31日。小谷正一「いつだって時代は過渡期だし、キャンパスは真っ白なんだよ」

小谷 正一(こたに まさかず、1912年7月31日 - 1992年8月8日)は、日本のイベントプロデューサー。

 「新聞のフォーマットというのを作ったといわれている。確かに、戦前までの新聞は、一面は活字だけらけだが、大きな写真でドーンとあって、100号活字で見出しがあるというスタイルは戦後のものだろう。これは、大阪毎日新聞の時代に小谷さんが作ったと聞いている。

 次に、日本で最初の「イベント」というのをやった男である。、、大阪毎日の編集局長時代に、「毎日新聞」という言葉を「朝日新聞」に掲載したいと思った。それで、当時、甲子園球場に四国から牛を連れてきて「闘牛大会」というイベントをやった。人が集まって事件になるから、朝日新聞も、毎日新聞主催のこと出来事を記事にせざるを得なかった。これが日本でのイベントというもののスタートだとされている。まだ無名の井上靖が、小谷さんをモデルにして「闘牛」という小説を書き、直木賞を取る。

 新聞の世界で名をはせた次は放送である。ちょうど、大阪毎日放送という民間放送がスタートする時代で、小谷さんは(たぶん)最初の民放の編成局長になる。これは本人から聞いたんだけど、彼はグラフ用紙を買ってきて、1週間分の番組表を全部一人で作った。500の番組だった。今のテレビ番組表の骨格を作ったのだ。

 新聞・イベント・テレビのプロトタイプを作ったあとは、広告の世界に入る。いわゆるSP(セールスプロモーション)だ。60年代から70年代にかけての、高度成長とともに発展した、日本の消費社会・広告社会の中で、電通PRを舞台にした、小谷さんの役割は大きかった。例えば、銀座のソニービルがあるでしょう。あそこの入り口のところで、いろんなイベントやってますよね。今では、銀座の風景になじんで、当たり前のようになっているが、あれだった、最初は、誰かが仕掛けたのである。小谷さんである。社会全体をメディアの舞台として認識した、最初のメディアマンだったのである。

 そして、大阪万博である。小谷さんは住友館とか、いくつかのパビリオンのプロデューサとして名前が残っているが、行政的な仕掛けが堺屋太一氏だとしたら、内容的な仕掛けは小谷さんの仕切りであろう。」

以上が、小谷正一を師匠とした私の友人の橘川幸夫が語る小谷の業績である。

小谷正一は年越しの名刺を持たない男」といわれたように、一つの仕事を成し遂げると未練なく次の会社で仕事に取り組むというスタイルを貫いた人だ。

時代の過渡期に巡り会って縦横に仕事ができた幸運をうらやましがった後輩に向けて語ったのが冒頭の言葉である。そう、いつだって時代は曲がり角にあるし、いつだって過渡期なのだ。遅れてきた青年などはいない。真白いキャンパスに自由に絵を描こう。