小林秀夫『何がベンチャーを急成長させるのか--経営チームのダイナミズム』(中央経済社)

小林秀夫『何がベンチャーを急成長させるのか--経営チームのダイナミズム』(中央経済社)。多摩大の同僚の小林先生の著書。

「史上最短で東証一部に上場した企業に、創業メンバーとして参加した経験をもとに、草創期の舞台裏をエスニグラフィで解明しつつ、ベンチャー参画によるキャリア形成も探究」。 

何がベンチャーを急成長させるのか

成功したベンチャー企業では、トップのカリスマに焦点が当たる。しかし、実際はトップを中心とした経営チームが創業時代を牽引する。この経営チームの働きについて、自らの11年間の起業経験を題材に理論化した労作だ。

トップ個人、10人ほどの経営チームの形成、人間関係の変化、社内政治の登場、ストックオプションを手にしている創業・経営チームとそれ以外の社員との軋轢、常態ともなった危機の連続、そして株式上場、、、。この間の実態を観察、インタビュー、経営理論などを用いて丹念に追っている。トップの個性への評価や批判なども率直に語られており、ノンフィクション的にも読める学術的色彩の強い注目すべき書物だ。

自分にとって重要な、30代半ばから40代半ばにかけての創業経験というキャリアを十全に総括し、そして学者としての出発を宣言した書になっっている。

起業というとハードルが高くなるが、創業時の経営チームへの参画者を増やすことが重要だとの指摘は納得感がある。人、物、金、情報、などの経営資源の専門家として創業時の経営チームに参加、参画することはキャリア形成の面でも大きな収穫があることがわかる。

起業、創業時のダイナミックな動きに参加しようとする人材が増えることに、この本は貢献するだろう。またわが大学の次のステージを考える際にも、大いに参考になる。

 

「名言との対話」。9月2日。柳田誠二郎「結局、思想です。思想が人間を支配するんだ」

柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年明治26年)9月2日 - 1993年平成5年)11月18日)は、日本実業家日本航空初代社長を務めた。

日本銀行に入行し、理事を経て副総裁をつとめたが、戦後の公職追放で1946年に日銀を去った。

「どんな仕事でも3年ぐらいしないと基礎はできない。まして航空事業には10年間のブランクがあり、まったくの無一文から始めたのだから、そんなに早く良くなる方がむしろおかしい。しかし、世間はそう思わないから、我々としても焦る必要はないが、できるだけ早く1銭でもいいから黒字を出すように努力しましょう。」

終戦後ゼロからスタートした日航は、3年間で10億円の赤字を出していた。初代柳田は日銀出身者で航空産業は未経験だった。以上は柳田誠二郎に送った専務の松尾静麿(二代目社長)の手紙である。柳田は1951年8月から1960年12月まで社長をつとめた。

柳田は大学時代に禅宗に打ち込んだ。亀井貫一郎にすすめられ岡田虎二郎を訪ねて以降、晩年まで岡田式静坐を続けた。柳田は『私の履歴書』に「大学時代は夜寝るのも惜しんで猛勉した。そのうえお寺にこそ行かなかったが、依然禅宗に打ち込んで家で座禅を続けていた。そして先人にならってわが身を苦しめ、それに忍耐し、克己努力することばかりやっていたので、いつか精神主義が勝ちすぎ、気ばかり強くなっていた。」と書いている。

私は「臆病者と言われる勇気を持て」という安全に関わる名言を残した松尾静麿の後の、朝田、高木、山地、利光、近藤という5人の社長の時代を過ごした。新入社員の時に「トップと語ろう」という企画に応募して朝田社長と会ったとき、「久恒君は大分か?」と言われて驚いたことがある。本社勤務となった30代半ば以降は、山地、利光の近くで仕事をし、辞めるときは近藤社長から激励されたことを久しぶりに思い出した。

柳田誠二郎は、明治26年生まれで、平成5年に亡くなっている。日清戦争の直前に生まれ、日露戦争第一次世界大戦第二次世界大戦、敗戦と米軍占領、朝鮮戦争、高度成長、絶頂期、そしてバブル崩壊まで生き抜いた。100年人生だった。

奈良の法隆寺での会合で寺島実郎さんから北陸経団連のトップに紹介されたとき、私が日本航空出身だというと、この人は伝説上の人物だった柳田のことが話題にした。若い頃、仏教関係の勉強会で影響を受けたという話だった。冒頭の「思想」が人間を支配するという言葉は、柳田の仏教に関する勉強を継続していたというバックグラウンドを知ると納得できる。自分で自分を鍛え、揺るぎない思想を創りあげた人物だったのだろう。思想が個人を支配する。そして個人を通じて集団も支配する。だから思想が大事なのだ。