モンゴル訪問の旅の総括

早朝5時半にゲルキャンプを出発。

チンギスハン国際空港に到着。日本の台風は北海道に去っているが、風が強く出発が遅れている。最終的には4時間遅れでようやく出発。

隣の席になったバートル先生から知識を得ながらの5時間半のフライトとなった。

 

総括:

モンゴル訪問団は3泊4日で、実質は丸二日間の行程だったが、中身が濃かった。多摩大からは、寺島学長、私、金先生、バートル先生、黒瀬課長(国際交流担当)が参加。

事前のモンゴルに関する書籍の読破もあり、この訪問でモンゴルの1206年からの建国と世界制覇と、末裔まちの複数の大帝国の繁栄、そして第一次世界大戦前後の帝国の崩壊。そしてソ連の誕生とそれにともなう1922年のモンゴル人民共和国の誕生による社会主義化。そしてソ連崩壊に伴う1992年の民主化によるモンゴル国の誕生、それから25年という歴史を学んだ。

ロシア・中国に挟まれたモンゴル国、そして社会主義時代の北朝鮮など友好国との深いコミュニケーションなど、独特の得難い地政学上の位置も理解した。特に「北東アジア」の視点は重要だった。多摩大は国際交流では、大中華圏、アセアン(東南アジア)に焦点を絞るという方針だったが、これに加えてモンゴルを中心に「北東アジア」という概念も加えたい。

モンゴルとの大学連携では、訪問したモンゴル国立大学以外にも、モンゴル金融財政大学(学長と知り合った)との縁ができた。一緒に行った神奈川大学と連携して研究面と教育面でこの大学との連携にも取り組んでいきたい。旅の途中で、多摩大関係者、そして神奈川大関係者との意思疎通ができたのは収穫だった。

また、コバヤシ、オタフクソース、東海理研などの社長たちとの交流も、今後の動きにつながりそうだ。この点も収穫だった。

寺島学長、斉藤先生もともに強調していたが、「知って、何をするか」である。何をするかも見えているので、進めていきたい。

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 以下、出発時に成田で購入した本をざっと読了。

塩野七生『日本人へ--リーダー編』(文春新書)。 

日本人へ リーダー篇 (文春新書)

日本人へ リーダー篇 (文春新書)

 

・危機の打開に妙薬はない。、、「やる」ことよりも「やりつづける」ことのほうが重要である。

・私は原典主義である。、、史実そのものにじかに当るというやり方だ。

・年に一巻づつ刊行して、15年かけてローマ全史を書くときめた。

・重要な問題ほど、単純化して、有権者一人一人が常識に基づいて判断を下す必要がある。

・ユーモアのセンスは臨機応変のセンスとイコールな関係にある。

石井米雄歴史認識は共有できない。しかし「歴史事実」は共有できる。

 

池上彰佐藤優『大世界史』(文春新書) 

 ・モンゴルはチベット仏教の国。13世紀、モンゴル帝国を築いたときに、チベット仏教に帰依している。、、モンゴル帝国は寛容だった。

・沖縄系のハワイ移民は、日本人ではなく、沖縄人という意識がある。、、アmリカは高等教育機関である琉球大学を創設した沖縄のエリート層は占領期から地場エリートの養成を考えた。だからアメリカに対し、比較的好印象を抱いている。大田昌秀知事はアメリカ留学世代、仲井真知事は沖縄枠で東大に入っている。

・現代のリベラルアーツ。宗教・宇宙・人類の旅路・人間と病気・経済学・歴史・日本と日本人。偏見や束縛から離れて自由な発想や思考を添加できる。

・おとなの教養。私たちはどこから来て、どこへいくのか。自分の立ち位置を知るには教養が必要。現代人必須科目は「日本と日本人」だ。教養とは自分を知ること。日本人、人類、、。

 

伊藤洋一『情報の強者』(新潮新書) 

情報の強者 (新潮新書)

情報の強者 (新潮新書)

 

 ・iPhoneでプレゼン。自分で撮影した動画、ユー-チューブ動画。講演はiPadmini。

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以下、機内で考えたこと。

「今後の生活方針。書斎・書庫問題。健康。取り組むべきテーマ。語学。学会。記念館ミュージアム。ブログ本。同窓会。授業の組み立て。、、、」

 

 

 

「名言との対話」。9月18日。土屋文明「我にことばあり」

土屋 文明(つちや ぶんめい、1890年明治23年)9月18日戸籍上は1月21日) - 1990年平成2年)12月8日)は、日本歌人国文学者

文明という名前は、日清戦争からナショナリズムへと大きく旋回する曲がり角の時代で、明治の文明開化の落とし物のような命名であった。

土屋文明は、歌人であり、万葉集研究の研究者でもあった。文献研究とフィールドワークがその方法でもあった。ライフワーク「万葉集私注」は万葉集20巻4500余首の注釈。それまでの学説を踏まえた実証的な研究の上に、歌人らしい鋭い創見を随所に見せた画期的な本である。足かけ8年、仕事に取りかかってから13年を費やしている。「この私注の最終巻の後記を記すにあたっって、事が終ったといふよりは、寧ろここから出発が始まるやうな心持で居る。、、」という心境になっている。その後も補正の執筆は生を終えるまで続く。三度改版を重ねている。昭和28年にはこの功績で芸術院賞を受賞している。「鉄ペンも得難き時に書き始め錆びしペンの感覚今に残れり」。また、もう一つのライフワーク「万葉集年表」は36歳で着手し、完成は実に文明90歳の春である。

 アララギの中興は文明の企画力と組織力に負うところが大きかった。文明は頻繁に地方アララギ歌会へ頻繁に出席する。それが人的交流の場を生み組織の拡大につながっていった。このあたりは知研の運営に参考になる。昭和4年には中津にも出かけている。

土屋文明は、生涯の転機に、常にいい人に出会っているという印象がある。昭和61年の96歳では同郷の中曽根総理から文化勲章をもらっている。

「垣山にたなびく冬の霞あり我にことばあり何か嘆かむ」は、敗戦直後に疎開先の自らを励ました歌だ。尊敬する先輩の茂吉は沈黙を余儀なくされた悔恨を詠んでいるのだが、文明は自分には滅びることのない「ことば」、つまり短歌がある。今からはそれを縦横に使える時代がきた。何を嘆くことがあろうか、と確信に満ちた宣言をしている。

「本来の仕事である日本文化向上のための仕事をどんな形で実行していったらよいか」「作歌は我々の全生活の表現であって、短歌の表現はただちにその作者その人となる。」「この新しい事態を諸君がいかに実践して居るか、その生活の真実の表現をこそ吾々は聞かむと欲して居るのである。そこにまだ短歌として開拓されない、ひろい分野が在るやうの私は思ふ」「世の動きに無関心で居るといふ意味ではない。実は運動や討論よりももっと根本的な所に関はろうとするからである」「生活と密着な文学として短歌は滅びない。実際短歌は生活の表現というのではもう足りない。生活そのものというのが短歌の特色。、、その少数者は「選ばれた少数者」の文学。、、」「現実主義(リアリズム)ということに尽きる」など、文明は力強い主張をして同学の人々を励ました。そして、100歳と2ヶ月という長寿をもって、一筋に精進を重ねた。この人は100歳時代のモデルである。