漱石山房記念館が本日オープン。「夏目漱石記念施設整備基金」への寄付者名簿パネルに小生の名前も。

新宿区立漱石山房記念館が本日オープン。早稲田から歩いて10分。漱石が1907年の40歳から1916年に49歳で亡くなるまで住んだ場所だ。この年に東京帝大を辞し朝日新聞社に入社し、「抗夫」以後、「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などの作品を書いた。

新宿区立で12億円をかけて整備。地上二階、地下一階。漱石の手紙、初版本、愛用のながじゅばんなどの資料50点を展示。漱石好物のもなかなどが楽しめるブックカフェ。図書館医は漱石関係本3500冊。観覧料は300円、小中学生100円。

名誉館長は半藤茉莉子。この人は漱石の五女の筆子の娘で、作家の半藤一利の妻。

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晩年の漱石より、やや若い漱石像。信条の「則天去私」。

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 10畳の書斎と客間が再現されている。客間にかけられてあった安井曾太郎の絵のレプリカ、東北大図書館の漱石文庫に保管されている図書の背表紙を写真にとって並べた書棚、そして神奈川近代文学館所蔵の文机のレプリカなど、で構成されている。板の間には絨毯を敷き、愛用の紫檀の文机を使った。

この客間で毎週木曜日の午後3時から「木曜会」が開かれた。実際には木曜日以外にも来客が多く、漱石人間性と学識を慕う人々が集う場となった。 蔵書は惜しみなく開放され、「貸した本」に記録された。漱石山房からは文学者、学者、教育者など優れた人材が輩出している。

この書斎と客間は、元々は住居スペースについていた医院の診察室を改築した空間である。「僕の理想を云えば学校へは出ないで毎週一回自宅へ平常出入りする学生諸君を呼んで御馳走をして冗談を云って遊びたいのです」と鈴木三重吉への書簡で述べていた。

漱石は胃弱であるのに、食への関心が旺盛だった。体操器具など健康グッズにも手を出していた。お金に対しては几帳面で金銭管理は徹底していた。

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 漱石は設けた二男五女たちと散歩に出かけ、趣味の謡の稽古をし、漢詩や書画の制作にあたるなど、充実した日々を過ごしている。

 

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 猫塚。

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 記念館で、朝日新聞入社の際の交渉の書簡が展示されてり、興味深かった。

1907年3月4日

、、、場合によりては池辺氏と直接に御目にかかりご相談を遂げ度と存候。然し其前考の材料として今少し委細の事を承り置度と候。

一 手当の事  其高は先日の仰の通りにて増減は出来ぬものと承知して可なるや。それから手当の保証 是は六やみに免職にならぬちか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保証してくれるかと云ふ事。何年努めれば官吏で云ふ恩給といふ様なっものが出るにや、さうして其高は月給の何分一に当るや。小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺候。

次には仕事の事なり。新聞の小説は一回(一年)として何月位つづくものをかくにや。それから売○の方から色々な苦情が出ても構わぬにや。小生の小説は到底今日の新聞には不向と思ふ夫でも差し支なきや。尤も十年後には或はよろしかるべきやの知れず。然し其うちには漱石も今の様に流行せに様になるかも知れず。夫でも差支なきや。

小説以外にかくべき事項は小生の随意として約どの位の量を一週何日位かくべきか。

それから学校をやめる事は勿論なれども論説とか小説とかを雑誌で依頼された時は今日の如く随意に執筆して然るべきや。

それから朝日に出た小説やら其他は書物と纏めて小生の版権にて出版する事を許さるるや。

小生はある意味に於て大学を好まぬものに候。然しある意味にては隠居の様な教授生活を愛し候。此故に多少躊躇致候。御迷惑とは存じ候へど御序(ついで)の節以上の件件御聞き合せ置被下度候。尤も御即答にも及ばずもし池辺氏に面会致す機会もあらば同氏より承りてもよろしく候。先は用事のみ 草々  

三月四日   白仁三郎様    夏目金之助

大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やて見度候。是も変人たる所以かと存候。

 

1907年3月31日

、、大約佐の如き申出を許可相成候へば進んで池辺氏と会見致し度と候。

一 小生の文学的作物は一切を挙げて朝日新聞に掲載する事

一 但し其分量と種類と長短と時日の割合は小生の随意たる事。、、、

一 報酬は御申出の通り月二百円にてよろしく候。但し他の社員並に盆暮れの賞与は頂戴致し候。是は双方合して月々の手あて(?)の四倍(?わからず)位の割にて予算を立て度と候。

一 もし文学的作物にて他の雑誌に不得己(やむをえず)荊妻の場合には其都度朝日社の許可を得べく候。(是は事実として殆どなき事と存候。、、、、)

一 但し全く非文学的ならぬもの(誰がみても)或は二三頁の端もの、もしくは新聞に不向なる学説の論文等は無断にて適当な所へ掲載の自由を得度と存候。

一 小生の位地の安全を池辺氏及び社主より正式に保証せられ度候。是も念の為に候。大学教授は頗る手堅く安全のものに候故小生が大学を出るには大学程の安全なる事を希望致す訳に候。、、、万一同君(池辺氏)が退社せらるる時は社主より外に条件を満足に履行してくれるものなく、、、、社主との契約を希望致し候。

必竟ずるに一度大学を出でて野の人となる以上は再び教師○にはならぬ考故に色々面倒な事を申し候。熟考せば此他にも条件が出るやも知れず。出たらば出た時に申し上げ候が先ず是丈を参考迄に先方へ一寸御通知置被下度候先は右用事迄 草々頓首

 三月十一日        夏目金之助

白仁三郎様

 

 

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夏目漱石記念施設整備基金」への寄付者名簿に小生の名前も。

10万円以上の寄付者。半藤一利・半藤茉莉子の名前も。

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 「名言との対話」9月24日。玉木文之進「一日勉学を怠れば国家(藩)の武は一日遅れることになる」

玉木 文之進(たまき ぶんのしん。1810年(文化7年)9月24日--1876年11月16日)は、幕末長州藩士で教育者山鹿流兵学者松下村塾創立者 

松下村塾をひらき,甥の吉田松陰杉民治(みんじ),宍戸璣(ししど-たまき)らをおしえる。藩校明倫館塾頭,代官,郡奉行などをつとめた。萩の乱に一族や門弟が関係した責任をとり,明治9年11月6日自刃(じじん)。67歳。

天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、「痒み(かゆみ)は私。掻く(かく)ことは私の満足。それを許せ長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる」などと、少年期の松陰を厳しく教育した。また親戚の乃木希典も玉木が教育している。

自分の研鑽が一日遅れればその分国家の進みが一日遅れる。幕末から明治にかけての青年たちの気概が明治国家を形づくった。日露戦争海軍参謀の秋山真之しかり、その他あらゆる分野で自分が一日怠ければ日本が遅れるとの決意で研鑽をした青年たちが短期間で近代化を成し遂げた。その原形は、松下村塾で青年たちを鼓舞した吉田松陰を少年期に訓育した玉木文之進のこの言葉にあったのか。