中村圭介『絶望なんかしていられない--救命救急医ドクター・ニーノ戦場を駆ける』

中村圭介『絶望なんかしていられない--救命救急医ドクター・ニーノ戦場を駆ける』(荘道社)を読了。

絶望なんかしていられない

 日本ではまだ数が少ない救急救命医の誕生と活躍の物語である。著者は1952年生まれの経済学者で東大社会科学研究所教授。

救急救命の専門医は、国内では事故、国外では戦争と難民発生時、災害発生時に、生命と身体を救う医者である。医学の課程を終えた後、外科3年、脳外科4-5年の経験が必要で、専門医になりには10年ほどかかる。その専門医のリーダーの新野宣文の人生の軌跡を追いながら誕生したばかりの「希望学」に迫ろうとした書物である。

医師は一生かけて治療できる人の数は2万人だ。災害医療支援活動では100万人、200万人という規模の数が治療の対象となる。そこではお金はとらない。だから貧乏人も金持ちも関係ない。真っ当に仕事をすれば、人がどんどん助かっていく状況にあり、医療の原点を感じることができる。その魅力に取り憑かれた先駆者が、この本で紹介されている新野である。

1949年生まれの新野は高校卒業後、3年を今でいうニートで暮らし、薬学部2年を経て一念発起して医学部に入り、9年半で卒業したのは30歳だた。医師国家試験にも2度失敗している。計算すると、日本医科大学附属救命救急センターで仕事をするのは32歳であり、8年間は遠回りしたことになる。

1988年緒ジャマイカのハイリケーンでの活動で60件の手術。そして40歳で赤十字国際委員会ペルシャワール外科病院での経験での3ヶ月で818件の手術をする。1989年のアフガニスタン第一次内戦で発生した難民が対象だ。働き続けたとして平均すると一日9件である。ここでの経験で人生が180度転換する。1991年のイラク・クルド難民支援。1995年の阪神淡路大震災。2003年のイラク戦争前夜にはヨルダンのあアンマンで野戦病院設営の準備をしていた。2004年、インドネシアスマトラ沖地震の災害医療支援では、町中に死臭がする。人生は短いから好きなことをやろう、「偉くならなくていい、実際に人の役に立つことやろう」と改めて決心する。国内では2008年の岩手・宮城内陸地震。、、、。

2003年から日本医科大学多摩永山病院救急救命センター長とありセンターを指揮する。この本が書かれた2010年からは教授として活躍している。

高齢者にセンサーを取り付けて脈拍が一定以上になったらアラームが自動的にセンターに知らせ、救急車が直行すると、心臓蘇生の可能性が高くなる。このシステムができれば、インターネットで指示しながら自分は難民キャンプにいることができる。それが新野の「希望」である。

私がこの本をなぜ読んだか。この本の主人公は、多摩大大学院でこの秋学期の講義中の私の「立志人物論」の受講生で、先日講義の後にいただいたからだ。団塊世代のひとつの生き方を他者が自分史風に書いてくれたものだが、これに自分自身で加筆していくと、自分が生きた時代、自分のやってきたことの意義、次の世代に残したいもの、そして自分はどう生きていくか、そういうことが自身にも、他の人にもわかるすぐれた自分史的作品になるのではないか。

佐藤一斎の「少壮老死」の思想そのものの人生の軌跡であると感じ入った。

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・上野の「運慶展」を見ようとしたが、待ち時間が70分といことで諦める

お茶の水野の山の上ホテルで昼食

・神保町古本屋街で本を購入

・白金で娘と会う

・新宿の損保ジャパンビルで「東郷青児」展。

・南大沢で夕食

 

「名言との対話」10月8日。武満徹「作曲家にとって一番大事なことは“聴く”ことだ。」

武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、日本の作曲家。ほとんど独学で音楽を学ぶ。若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、20世紀を代表する現代音楽家となった。享年65。

東京音楽学校を受験したが、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」と考え、2日目の試験を受けなかった。1951年に「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。武満の音楽は大河ドラマ、テレビドラマ、映画などの音楽で馴染みがある。1957年の「弦楽のためのレクイエム」はストラビンスキーに絶賛された。以後,「テクスチュアズ」「ノヴェンバー・ステップス」などを発表する。黒沢明「乱」など映画音楽も手がけている。日本の伝統を受け継ぎながら独創的で繊細な感受性をもった作風、精緻な構成と東西の音の感性を融合させた独自の作風は世界で評価された。

同時代の芸術家たち、谷川俊太郎小澤征爾岩城宏之安部公房堤清二大江健三郎らが長年の友人であり、互いに影響を与え合った。大江は告別式で弔辞を読み、新作『宙返り』を捧げると発表している。

晩年に監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられている。

「芸術は饒舌に身をかざろうとする時に衰えるものだ。」

「僕は音楽とは「祈り」だと思うんです。「希望」と言ってもいい」

学校教育の音楽に無縁だった武満は、日本を背負いながら自由に世界に飛翔した。異国趣味で琵琶や尺八をやるのではなく、西洋音楽にない日本の音楽の本質的で重要な面を出したいと願った。自然環境のように、流れるようにオーケストラ音楽を創っていった。武満徹は作曲家はまず、生きている生命、大いなる自然、そこから生まれ出る命の音を最初の聴衆として心を込めて聴こうとすべきだという。それは普遍への道である。