「副学長日誌・志塾の風」171013
10時:久米先生と懇談。
10時40分:授業「立志人物伝」4回目:岡本太郎とピカソ。三島由紀夫と川端康成。200人を超える人数だが静かに受講。手応えあり。
12時半:T-Studioで「トレンドウオッチャー」の収録:春学期は橘川先生が相手だったが、秋学期は久米先生で今回は初回。久米先生の受講生の1年生の女子二人がギャラリー。
13時:事務局との定例ミーティング:杉田学部長、宮地事務局長、水嶋教務課長、川手総務課長。各種案件の情報交換。
14時:宮地事務局長・杉田学部長と、人事案件。
18時半:九段サテライト:「文庫カフェの会」のセミナーに出席。モンゴルでご一緒した斉藤先生(元内閣官房副長官)主催の勉強会。
講師:マフムドフ・ウミド先生(政治学博士)。ウズベキスタン人。29歳。
タイトル「ソ連崩壊と対中央アジア外交---日本人が知らない親日国」
冒頭の挨拶は、斉藤先生と寺島学長。アゼルバイジャン通信社の駐日代表も取材で来ていた。
最大の人口(3200万人)のウズベキスタンを中心とする中央アジア5ヶ国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)に対する日本外交の軌跡と課題を手際よく説明してもらい、先月の北東アジアのモンゴルに続き、旧ソ連圏の国々の様子が見えてきた。
中央アジアは19世紀は大英帝国とロシア帝国のグレートゲームに翻弄。1867年から1881年までロシア帝国に支配下。1917年のロシア革命でソ連の傘下で70年。1991年のソ連崩壊で信独立国誕生。
冷戦後日本の中央アジア外交:1992ー1997年「走りながら考える」時期(渡辺美智雄外相歴訪。1993年外交関係樹立)。1997-2002年「ユーラシア外交」と「シルクロード地域外交」(橋本・エリツイン「ユーラシア外交」。小渕エイツイン。森・プーチン)。2003年から鈴木宗男事件で関係者の退場で川口順子外相の新方針「中央アジア+日本」という対話機構。麻生太郎・谷地次官「自由と繁栄の弧」。2006年小泉総理のウズベキスタン訪問。2015年安倍総理の中央アジア歴訪、3兆円。
以下、日本へのアドバイス。
・日本のイメージはよい政治的やh心がない国。このイメージを使うべきだ。
・中国に対しては、日本は上海協力機構にオブザーバーとして傘下すべきだ。
・中央アジアと日本の会議に必ずアメリカがきて長く演説するのはいかがか。
・中国はスピードが速いなどニーズに応えた援助をしている。内政には不干渉を守っている。資源外交に注力している。一帯一路、AIIBなど、日本は中国とつきあうチャンスだ。
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帰りは杉田先生の車に、バートル先生と同乗し、話をしながら帰る。
「名言との対話」10月13日。サッチャー「私は意見の一致を求める政治家ではない。信念の政治家だ。」
マーガレット・ヒルダ・サッチャー(イギリス英語: Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS、1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家、一代貴族。イギリス保守党初の女性党首(在任: 1975年 - 1990年)、イギリス初の女性首相(在任: 1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。
サッチャーは26歳で結婚。34歳で下院議員に当選。45歳、ヒース内閣で教育科学大臣、50歳、保守党党首、54歳、女性初の英国首相、65歳(1990年)、首相辞任。
「今日の、そして日々の自分の仕事を計画しなさい。そうすれば、あなたの計画は上手く行く。」「考えは言葉となり、言葉は行動となり、行動は習慣となり、習慣は人格となり、人格は運命となる」「幸運だったのではない、私はそれだけの努力をしてきた。」。以上、人生に関する言葉は、努力し自身を磨き上げてきた人の言葉だ。
「成功とは何か。それは、自分がやっていることに才能があること。そしてまだ十分でないということをわかっていること。一生懸命に働き、確かな目的意識を持っていなくてはならないということを知っていること。これらをすべて併せたものだと思います」
「危機の克服で重要なことは、最終的には私がどれほど本気であるかという、真剣さの質にかかっていたのであり、私はだれ一人として疑いをもたないようにしてきた。」「明るい未来を構想できなければ、明るい未来はやってきません」「物事は決断しなきゃだめよ。政治家のエクスタシーは決断にあって、決断がない政治家はだめ。それができない政治家は政治家に値しない。」。以上、政治に関わる名言は政策の実現と成功への示唆に満ちている。
私は20代でJALの駐在員としてロンドンに1年2か月ほど滞在し青春を謳歌したが、この時の前半は労働党のキャラハン政権、そして後半はサッチャー首相の登場の時期だった。ストライキ全盛で英国の凋落が誰の目にも見えていて、「英国病」という言葉に世界中が納得感を持っていた時だったので、鮮明に覚えている。福祉を切り詰め、景気を刺激し、国有企業を売り払い、炭鉱を閉鎖し、労働組合を攻撃し、IRAのテロにも屈せず、フォークランド紛争にも勝利したサッチャーは見事なリーダーとして英国を立て直した。近年の映画「マーガレット・サッチャー、アンアンレディ」は認知症のサッチャーの晩年を描く傑作だった。
10年という長期政権で英国を英国病から救い、チャーチル、ロイド・ジョージと並ぶ英国初の首相となったサッチャーの好んだ言葉は、才能、勤勉、目的、本気、真剣、構想、決断、などだ。女には首相はつとまらないとの当初の批判もあったが、「家庭の問題を理解できる女性ならば、国家を運営する問題をより理解できる」と考え実行したサッチャーの勝利となった。『サッチャー回顧録』には、圧巻の迫力で危機に敢然と立ち向かう、凜々しく品格のあるレディの姿がある。サッチャーはまさに信念の政治家だった。