『加藤秀俊著作集10 人物と人生』(中央公論社)

加藤秀俊著作集 10 人物と人生』(中央公論社)を読了。

 加藤秀俊が語った「人物と人生」は、今日の時点でも納得感が高い。若いときにも読んだと思うが、本当には理解できなかったのだろう。人生の秋霜を経てきて、改めて読むとうなづくことが多い。

 ・「生きがい」ある人生とは、プライドをもって生きることができる、ということである。

・「ショート・ショート時代」、、時間的な持続力をもった人間が例外的な偉人として珍重される。、、もしも何十年かの人生を通じて、なにごとかについての持続力をもつことができるなら、それは、とりもなおさず、「生きがい」のある人生であった、ということである。

・年月は恐ろしい。、、、蓄積は貴い。、、だいじなことは、その蓄積をじぶんの力でつくるということである。自力でつみ上げていくことである。、、コツコツと蓄積していくこと---そのプロセスが貴重なのだ、とわたしは思う。

・「責任ある仕事」とは、、、自由のある仕事、ということになる。そして自由度が大きければ大きいだけ、責任も大きくなる。

・もしも、未来社会がより「ゆたか」な社会で、すべての人間が、最低の文化的生活を保障されるようになるのだとすれば、少なからぬ数の人間が、職業生活から脱落して、のびやかに二十日ダイコンをつくるようになるだろう。(小松左京『そして誰もしなくなった』)。8万円の給料で働くよりは、5万円の社会保障をうけることを選ぶだろう。、、こうした生き方によってつくられる文化を仮に「若隠居」文化と呼ぶことにしよう。

・東洋の思想は「縁」という観念によてこの「偶然」を必然化した。

・道というのは、「えらぶ」ものではなく、「見えてくる」ものであるらしいのである。それは、ひとつの丘をこえてみて、はじめて、つぎの丘が見えてくるのに似ている。こうしようとおもってこうなるのではない。こうしてみようか、とおもってやってみると、やってきた結果として、次がみえてくるのである。

・世界は無数の断片のちらばりによってできあがっている、茫漠たるものだ。その断片のひとつに手をつけてみると、それが手がかりになってつぎの断片が見えてくる。そんなふうにして、いくつかの断片が見えない糸でつながり、関係づけられてゆく。、、このアミダくじ的世界観にもとづく作業の過程という以外のなにもんでもない。断片と断片を糸でつないでゆけば、ひょっとして、首飾りのようなものができるかもしれないが、、。

・毎日が選択肢の連続だ。こう、と決めたら、それでやってみよう、とわたしはいつもおもっている。そしてどうにかなるさ、と信じている。ほんとうに、どうにかなるものだ。

・将来、すこしづつ人間というっものをより深く学びつつ、この領域(評伝・伝記)でのしごともつづけてゆきたいとかんがえている。

 

 

「名言との対話」10月17日。益田孝「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく遠大な希望を抱かれることを望む」

益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日1848年11月12日) - 昭和13年(1938年12月28日)は、日本実業家。三井物産初代社長。男爵。

佐渡出身。函館、江戸で少年期を送り、ヘボン塾などで英語を学ぶ。幕府の通訳となり、1863年に使節団の一員として渡欧。大蔵省入り造幣権頭となるが、井上馨とともに退官。世界初の総合商社三井物産の設立に関わり、1876年に29歳で初代社長となった。わずか17人のベンチャー企業としての出発であり三井は資本を出さず、債務保証というスタートだった。中上川彦次郎没後は専務理事として三井の経営路線を商業主義的方向に修正した。1909年には三井合名を設立し理事長として財閥体制を確立した。

1914年の退任後は小田原に隠棲。茶人として鈍翁と号し、茶人、茶器の美術品収集家として名を残している。90歳という長寿であった。

 「貿易というものは、自国の物を外国に売り、外国の物を自国に買うのではまだまだである。外国の物を買って外国に売るのでなければ、本当の外国貿易とは言えない」

三井物産という社名の「物産」とは、物を産すという意味である。英語名のMITUI&CO.は「三井と仲間たち」を意味している。また日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。これは世界の物価や世界の動向を伝えるためであり、経営における情報の価値を知っていた。

「永遠の利と遠大な希望」という益田孝の志が現在に続く総合商社の雄と経済新聞という分野を創ったのである。また、益田は退任後は茶人として大師会光悦会などの大茶会を催すなど茶道復興に大きく寄与している。茶道具をはじめ、仏教美術古筆などの蒐集や、懐石研究でも知られ、「千利休以来の大 茶人」といわれるなど数奇者として名高い。太平洋戦争末期に米軍が小田原を空襲しなかったのは早雲台益田邸の美術品の価値を知っていたからともいわれている。66歳までの実業の世界と、その後の24年間の数奇者としての時代、その両方を極めた生き方と人生観に興味を覚える。