台風接近中、一日書斎で過ごす。戸板康二『ちょっといい話』。

台風接近中なので、自宅で来週のイベントの準備。

・10月31日(火):1年生対象の「問題解決学入門」の講義「図解思考を用いた問題解決の軌跡--私の問題解決人生」

・11月1日(水):T-Studioでの録画「久恒啓一の名言との対話」(センテナリアン:日野原重明片岡球子

・11月2日(木):読書イベントのパネル「読書への回帰」(飯田先生・中澤先生とのパネル)

・11月5日(日):シルバーデモクラシー企画(山梨)でのミニ講演「教養としての人物記念館の旅」

 以下、考え中。

・邪馬台「読書悠々」をどう料理するか

・2017年「名言との対話」の抜けている日の人選。クーベルタンシュリーマン大塩平八郎小松左京沢村栄治双葉山佐久間象山、福田平八郎、ロッシーニ菊田一夫深田久弥前原一誠、ミル、鈴木梅太郎カフカシェリー、ライト兄弟の弟、加藤周一エノケン

・蓋棺録を収集:2008年から2017年。600人くらい。

 映画「メッセージ」を図解コミュニケーションの観点からアマゾンプライム(有料)でチェック。宇宙人との交流の言語、、、。

 読書:戸板康二『ちょっといい話』(文藝春秋)を読了。

 有名人が起こすちょっと面白いエピソード集であるが、時間が経っているのでおかしさが分からないものも、ままある。共通のバックグラウンド、教養などがユーモアには欠かせない。

ちょっといい話 (1978年)

「各界名士500人の珍談・奇談集。直木賞作家・劇作家・評論家の著者が半世紀書きためた交友録から最高傑作を公開するユーモア笑事典」

「後記」から。「挿話に興味を惹かれる」「傑作は日記に要点だけ書きとめる」「最後は、落語のサゲのような一句」「幕末から明治大正」「二百字の原稿用紙に一話ずつ」

・日夏「われらの国語を、路傍の石のごとく動かすのはやめろ」(山本有三へ)

川端康成「じゃ払わなきゃ、いいはありませんか」(吉行淳之介が「銀座のバーが高くなった」と嘆いたのに対して)

・遠藤新「君は代議士、ぼくも大技師」(星島二郎へ)

野上弥生子は読んでいた本に赤鉛筆で文章を直していた。

草野心平は「火の車」(税務署対策)と「学校」(家の人対策)という酒場を持っていた。

瀬戸内寂聴「いいえ、私はアマです」(「プロって大変ですね」に対して)

朝倉摂「いやだわ、元代々木だなんて」(元共産党員の朝倉摂が住んでいる町の名が改正)

榎本武揚「まからねえか?」というよ、イタリアのレストランでは「マカロニ」を持ってきた。

島崎藤村「君、死ぬってどんな気持ちがする?」(田山花袋に)

佐々木邦「なるほど、翻訳家の家だ」(戸川秋骨の家は門から玄関までが洋風、中に進むと和風)

久保田万太郎「いいえ、あなたの俳句は、退歩しています」(渋沢秀雄「私の俳句は一向進歩ませんで」)

小沢昭一光源氏の役以外は、出演しません」(テレビやドラマの出演を断る口上)

・「切腹」(小林正樹監督)宣伝部「切腹もタケミツ、音楽もタケミツ」(刀は竹光、音楽は武満徹

菊池寛「文才のある文学青年ほど、困ったものはない」

高浜虚子「選句は選者の創作です」

武者小路実篤「雑誌にたのまれたら書く。ことわるより書く方が早い」

山田耕筰「いい歌だなと思って聞いていたら、君ねえ、それは、ぼくの曲だったんだよ」

 

「名言との対話」10月29日。井伊直弼「一期一会」

井伊 直弼(いい なおすけ。文化12年10月29日(1815年11月29日)-安政7年3月3日(1860年3月24日))は、幕末譜代大名近江彦根藩の第13代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老

直弼は17歳で300俵のあてがい扶持をもらい北の御屋敷に住む。ここを埋木舎(うもれぎのや)と名付け、15年間の部屋住み時代を過ごす。この時代に、禅、居合い、兵学、茶道、国学、歌道、古学などの教養を積んだ。藩主の死去によって36歳で彦根藩主とななり幕閣で頭角をあらわす。13代将軍家定の継嗣問題で幕府は揺れたが、1858年に直弼は大老に就任し家茂を将軍と決定し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、反幕府運動を徹底的に弾圧する。大政委任を受けた幕府が「臨時の権道」をとるのは当然であり、「重罪は甘んじて我等一人に受候決意」だった。不忠の臣とも、開国の恩人ともいわれ、時代によって評価には振幅がある。

「井伊の赤鬼」と恐れられたし、明治政府からすれば大罪人ということになり厳しい評価にさらされているのだが、NHK大河ドラマの初回「花の生涯」で描かれたように第一級の教養人であった。「一期一会」は井伊直弼の『茶湯一會集』の巻頭に出てくる井伊直弼の造語として知られているが、もともと千利休の弟子山上宗二の著書にあったものだ。それを井伊直弼は自分の茶道の心得とし、井伊の言葉が広まったと言われている。

世に埋もれている時期も、そして幕府の要職をつとめる時も、「人は上なるも下なるも楽しむ心がなくては一日も世を渡ることは難しい」という心持ちで過ごしたのである。「一生に一度」の決意でものごとに当たる心構えの井伊直弼は暗殺で斃れることはもとより覚悟の上であった。「一期一会」は厳しい言葉であると改めて思う。