多摩祭の初日。すっかりこの名称も定着したようだ。
飯田先生の古本屋は昨年の5倍の売上げ。飯田先生と樋口先生。
13時から 「私の志」小論文・スピーチコンテスト。
私は冒頭の「開会の挨拶」
「教育理念=現代の志塾」「何々になろうではなく、何々をしよう」「自分の歌を歌えばいいんだよ」「小さな完成よりも大いなる未完成へ」「偉い人に」「賞は激励」。
英語と日本語での「私の志」のプレゼンテーション。
内容も素晴らしいが表現力も豊か。英語も日本語も音楽のように語る。8人のうち7人が女子高生。志という言葉を高校生が使うのは聴いていて気持ちがいい。ドラマチックプレゼンテーション。ユーモアが混じればもっといい。、、。
プレゼンテーションが終わると、全員が付き添いの両親と目を見合わせて、上気している姿はほほえましい光景だ。
審査委員長の中村その子先生の講評。
「背筋が伸びた」「情報を鵜呑みにしないで社会に目をしっかり開いている」「ゆるくなく明確な志」「夢ではなく、壁を意識し努力し、きちんとステップを踏もうという考えが良かった」
「名言との対話」11月11日。乃木希典「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我は行くなり」
乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。
日露戦争の英雄・乃木大将を祭った神社は全国にある。下関、萩、京都、名古屋、北九州、熊本、仙台、香川、台湾、東京と、縁のある土地には必ず乃木の神社やゆかりの施設がある。
0歳から16歳までを過ごした山口県下関の長府にある質素な家を従えた乃木神社(大正8年12月竣工)。この長府という町は白壁の武家屋敷がのこる町並みが見事だ。乃木神社は学問の神様となっているが、子供の頃の母のしつけに従った挿話の数々や学習院の院長として多くの若者の育成に当たったからだろう。「幸を招く基は朝晩に先祖に向かひて手をば合せよ」は乃木家の家訓である。乃木旧邸(長府宮の内町)は6畳、3畳、押入れ、2坪の土間という実に小さな家だった。家具がほとんどない。実にシンプルな生活だ。
乃木将軍謹書の「智 仁 勇」(「智--ばかげた遊びや、いやしいことをせぬよう 恩義をわきまえ目上の人をたっとぶよう。仁--よわいものいじめをせぬよう 人の上をおもいやるよう。勇--こぜりあいをせぬよう づるけぬよう こうと信ずることはあくまでもしおうせるよう 又強きものとてもわけもなく恐れぬよう」。これは現在、長府豊浦小学校の教育目標となっている。
栃木県那須の乃木神社にある乃木記念館には「忠孝」と達筆で書かれた乃木の文字やこの那須の地に20年住みながら農業に励んだ「農事日記」が展示されていた。国の富強の大本は農業にあり、路傍に黄金が満ちるといった詩も素晴らしかった。ロシアの敵将ステッセル将軍らとまみえた有名な水師営会見での打ち解けた写真。神社内には53坪の「乃木希典那須野旧宅」が残っていた。「名将乃木希輔」(桑原巌)という書物を神社で購入する。副題には「司馬遼太郎の誤りを正す・附 司馬遼太郎氏を偲ぶ」とある。司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」では、乃木希典の軍事的無能を描いてあるが、本書を読めば「司馬氏の著述が如何に事実を誤解し、偏見独断に満ち満ちたものであるかを、容易に了解されるものと確信する」とある。司馬遼太郎が生前、「坂の上の雲」のテレビ化に諾と言わなかったのも記述の誤りによって人を迷惑をかけると感じたからだという。
明治天皇崩御で自刃した時の「遺言條」(大正元年9月12日夜)では第一から第十までの遺言が書き連ねてあり、宛名は妻の静子だった。この時点では静子は殉死する予定ではなかったのだ。軍神とあがめられた乃木の葬儀には20万人という前代未聞の人々が弔問に訪れたという。十文字に割腹、妻静子が護身用の懐剣によって心臓を突き刺しでの自害を見届け、その後自刃し即死。夏目漱石は小説『こゝろ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書いた。葬儀には外国人も多く参列し「世界葬」ともいわれた。
冒頭に掲げた歌は乃木希典の辞世の歌である。この殉死に対しては内外から賞賛と批判があった。乃木希典は明治を創った最後の武弁であった。明治天皇と乃木の死によって明治という偉大な時代が終わったのだ。