学部の「立志人物伝」:8回目は「女性」の偉人編。与謝野晶子・樋口一葉・石井桃子・向田邦子・草間弥生・志村ふくみ

学部の授業「立志人物伝は快調に進んでいる。

8回目の授業「怒濤の仕事量」では「女性」の偉人を取り上げた。以下、受講生のアンケートから。毎回のメッセージは若者の心に届いている。

・偉人に負けないように⾃分の世界観を広げようと強く考えさせられた。

・⽩洲正⼦さんの⾔葉は⾃分でも薄々と感じている部分があった。「命がけで何かを実⾏すること」今の私に⾜りていないのは「命をかける覚悟」なのかもしれない。
・命がけで何かを実⾏してみることが⼤切だと分かった。私も何かを実⾏してみようと⼼がけたい。

・与謝野晶⼦の詩は当時の⽇本の思想には反していたが公表できたことの凄さが分かった。

与謝野晶子「⼈は何事にせよ、⾃⼰に適した⼀能⼀芸に深く達してさえおればよろしい」という⾔葉は今回の講義で⼀番いいものだと思った。

・与謝野晶⼦のエッセイを少しずつ読んでみようと思った。
・与謝野晶⼦は詩も素晴らしいが、その⽣きるエネルギーが凄まじい。

・与謝野晶⼦は13⼈⼦どもを育てながら仕事をこなしたと知り、どういう⽣活をしたらそこまでのことができるのか不思議に思った。

・与謝野晶⼦や樋⼝⼀葉は戦時中の男尊⼥卑の時代にまわりの⾵習や視線に負けずに⾃分⾃⾝の⽣き様を精⼀杯出し切った事に羨望の念を感じた。与謝野晶⼦の死にたまふことなかれには、とても驚きを覚えた。
・樋⼝⼀葉の⾔葉の中で「このような時代に⽣まれた者として、何もしないで⼀⽣を終えて良いのでしょうか。何を為すべきかを考え、その道をひたすら進んでいくだけです」という⾔葉から、限られた中で活躍していく⼥性の⼒強さが素晴らしいと思った。

・樋⼝⼀葉は今の私達と同じくらいの年齢で亡くなっていた。⾔葉を調べようと思う。
・⽯井桃⼦さんに関⼼を持った。有名な本を作っていることを知らなかった。本を詳しく知っていても、作者のことを知らないといけないと感じた。

・⽯井桃⼦は70年間にわたり本を出し続けその対象が全て⼦ども向けということに驚いた。

・向⽥邦⼦さん、いつ死んでもいいように⼀⽇全⼒をかけているが⼼に刺さった。

向田邦子のいうように人生は終わるかは誰も分からないから後悔無く今を⽣きていかなければならないと思った。

・向⽥邦⼦のエッセイはとても好きでよく聞いていたので、本講義で取り上げられてとても驚いた。
・草間彌⽣さんの⼈物像には惹かれるものがあった。
・草間さんの美術館に⾏ってみたい。

 ・志村ふくみ⽒の「⼈は⾃然と対等な関係ではなく⾃然の中に⼈が⽣かされている」という⾔葉に現代の⼈々のエゴや傲慢さが含まれていると思った。

 

「名言との対話」11月26日。梅屋庄吉「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」

梅屋 庄吉(うめや しょうきち、明治元年11月26日1869年1月8日)- 昭和9年(1934年11月23日)は、日本実業家 

梅屋庄吉は香港、シンガポールなどでも写真業を営む国際的実業家であり、そこから発展して映画興行を大々的に行った人物だった。日本活動写真、後の「日活」を創業したメンバーの一人で、創業時には取締役を引き受けている。1911年にはカメラマンを中国各革命の戦場へ送り出し、1912年には白瀬中尉の南極探検の記録映画をつくり全国で上映するなど熱血漢だった。美男、おしゃれ、美食家、早起き、そして書斎にこもる人だったそうだ。そして映画の黎明期の主役の一人であり、アイデアマンだった。
1915年には、東京大久保の梅屋邸で孫文宋慶齢の結婚披露宴を行っており、この時の写真は、上海の孫文記念館でも見たことがある。孫文49歳、慶齢は22歳だった。慶齢は孫文亡き後は中国共産党で活躍し、国家副主席にまでなっている。北京の宋慶齢記念館で、毛沢東金日成と談笑する慶齢の写真を見たことがある。2008年の上海万博でも「孫文梅屋庄吉展」が開催されている。

孫文死去の後も、1925年には東京で孫文追悼会を開き、1929年には南京で孫文銅像を建てている。この時の写真では梅屋の隣は孫文の後継者・蒋介石とその妻・宋美齢だった。

中国と台湾双方から国父と呼ばれている孫文は、日本との縁が深い。中国革命がなった後、革命に貢献した日本人として、幾人かの人物を挙げている。資金援助は、久原房之助と犬塚信太郎。奔走したのは、山田良政、山田純三郎兄弟。宮崎弥蔵、宮崎寅蔵(滔天)兄弟。菊池良士。萱野長友。不思議なことに梅屋庄吉の名前は出てこない。それは、孫文梅屋庄吉が1895年の双方が20代後半の若いときに交わした「孫文の革命を梅屋が資金援助する。このことは一切口外しない」という盟約のためだった。「ワレハ中国革命ニ関して成セルハ 孫文トノ盟約ニテ為セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙など一切口外シテハナラズ」というノートを梅屋は残している。迷惑を受ける人のことを案じたのだ。そのことが梅屋の名があまり知られていない原因だった。梅屋は孫文の南京での国葬の時には、日本人としてただ一人孫文の柩に付き添っている。

孫文が梅屋に送った「同仁」という書は、すべてのものを平等に愛するという意味がある。また、梅屋は、「積善家」というい書を書いている。積善の家には必ず余慶ありという意味である。 

梅屋庄吉関東大震災は避暑のために滞在していた千葉の別荘で遭っている。13日には大久保の留守宅に向かった。「東京市民の惨害は酸鼻の極に達し到底筆紙のよくする所ではない。、、この世ながらの修羅地である。」「最近の鮮人騒ぎの〇〇に顧みるときは、負けいくさに対しては、国民は必ずしも頼もしき国民ではないとの観念を一般外人に抱かしむるに至ったことを残念に思ふものである。、、朝鮮人騒ぎの経験は日本国民性の最大欠点を遺憾なくばく露したるものとして切に国民的反省を促さんとするものである。」

中国革命は日本人の支援者無くしては為し得なかったという説もあるほど、孫文の支援者は多かった。清朝は倒れたが、孫文が遺書で言っているように「革命はいまだならず」で、中国は共産党の国になっていき、日本とは戦争状態になっていった。このため、日中双方とも、こういった日本人の存在について触れないことになってしまった。梅屋のほかにも、熊本出身の宮崎滔天などももっと知られていい人物だと思う。

「中国の未来のためには革命を起こして清朝を倒すしかない」と話す若き孫文に対して、梅屋は「君は兵を挙げたまえ、我は財をあげて支援す」と誓った。映画事業で手にした巨万の富は、中国革命の支援と、孫文銅像の制作などで、きれいさっぱりなくなった。この銅像文化大革命紅衛兵の攻撃にあったとき、周恩来が「日本の大切な友人である梅屋庄吉から贈られたもの。決して壊してはならない」ととめて難を逃れたというエピソードがある。日中関係の古層にはこのような物語があることを忘れてはならない。