後藤健市。高崎義一。児玉博。久米信行。橘川幸夫。菊池さん。ダイナミックな ローカルとグローバルの息吹を浴びる話題満載の2時間半。

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17時。有楽町の国際ビルで京都の未来フェスで会った十勝帯広の後藤健市さんの事務所で橘川幸夫さんと久米信行さんと合流。

18時:ビル地下の「にっぽんのひとさら」で食事会。後藤さんの発酵食品料理の店。珍しい料理を堪能。そして、それ以上に参加者の話を堪能した一夜となった。 ローカルとグローバルの話題満載の2時間半。ダイナミックな時代の息吹を浴びた。

後藤健市。「場所文化」をキーワードに具体的な場の設定に関わり、地元の十勝・帯広では、北の屋台(2001)、スノーフィールドカフェ(2002)、東京では、場所文化フォーラム(2002)、とかちの...(2007)、にっぽんの...(2010)の立ち上げと運営に携わってきた。さらに、まちづくりのさまざまなアイディア実現のために会社・団体を複数設立し、場所の価値を生かした実践活動を行っている。2008年には場所文化機構(LLP)を立ち上げ、全国各地での講演や、地域の元気人材を巻き込んだ活性化事業に携わりながら、コミュニティビジネスやソーシャルビジネス創出の強化に取り組んでいる。また、2010年からアジア連携を視野に入れた事業に取り組んでいる。地域活性化事業以外として、障害理解とコンプレックスの自覚のための「アイマスクプログラム」を教育現場で行っており、また、ポケットサイズのカラー点字器を開発し、「名刺に点字を入れる」ボランティア運動も展開している。(カラー点字プレートは98年度のグッドデザイン賞中小企業庁長官特別賞

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/siryou/dendoushi/h27/gotou.kenichi.pdf#search=%27%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%81%A5%E5%B8%82+%E5%B8%AF%E5%BA%83%27

高崎義一。キズナジャパン社長。フィンテックベンチャーの世界の旗手。世界20億人の金融難民の救済に奔走。サンフランシスコ、ロンドン、ベンガロール、シンガポール。現在はインドを拠点に活躍。直近のサウジアラビアでのビジネスの話題は実に興味深い。

www.projectdesign.jp児玉博。ノンフィクションライター。2016年に文藝春秋堤清二 最後の肉声」で大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞。『堤清二 罪と業 最後の「告白」』。『“教祖”降臨 楽天三木谷浩史の真実』。『幻想曲 孫正義ソフトバンクの過去・今・未来』。大分県佐伯市出身。

菊池さん。乃木坂などアイドルタレント業界の重鎮(?)。

 

 

  

 「副学長日誌・志塾の風」171127

「ビジネススクエア多摩」企画運営委員会。多摩大(総研)・多摩市・多摩信金の三者連携の会議。電通大の竹内先生。以下、メモ。

多摩センターのビジネスセンター化の進行。多摩信金本店ビル。企業と大学のお見合いの小さな仕組み。私立大キャリア懇。京王電鉄。地域課題解決創業。相談が入り口。武蔵野プレイス。人。創業支援の方向調査。、、。

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  午後は、研究室で学部と大学院の授業の来年度シラバスの作成、教員活動のプレ報告書作成を、一気に完了! ディプロマポリシーとの関連を意識。

飯田先生、池田課長。:ラウンジの活用法。

高野課長・山本さん:ZOOM。T-Studio録画。

 

 

「名言との対話」11月27日。藤田嗣治「今までの日本人画家は、パリに勉強しにきただけだ。俺は、パリで一流と認められるような仕事をしたい」

藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家彫刻家 

第一次大戦と第二次大戦の間に挟まれた1920年代のエコールド・パリの華やかな時代を藤田はパリで多くの天才芸術家たちと過ごす。酒と議論と女に彩られた狂乱の時代である。モディリアニ、スーチン、キスリング、パスキン、、  、モデルのキキなど。その中心にいつも藤田はいた。

第二次大戦の前後、日本に滞在した藤田は、軍部からの要請で戦時意識を高揚させる戦争画を数多く描いている。パリ時代の繊細に女性を描く画法とはまったく違う新しい領域だった。このため、戦後は戦争協力者ということで、画壇から排斥される。しかし、若くしてフランスに住み名を挙げた藤田は、日本の国難にあたって日本人としての務めを自分の領域でひたすら果たそうとしたのだ。そしてあげて戦争協力を行った画壇の責任を一人でとって日本を離れたのである。藤田は68歳の時にフランスに帰化する。日本を捨てたと日本人から非難の声が起こる。策動、嫉妬、迫害、、。しかし、あらゆる場面で陰湿な策謀がパリの藤田を襲っている。藤田は日本に捨てられたのだ。

藤田はそのパリでカトリックの洗礼を73歳で受ける。そしてレオナルド・フジタと改名する。レオナルドは、ダ・ヴィンチからとった。これも日本では、思いあがっている、不遜であるとの非難を受ける。しかし、藤田はこのレオナルド。ダ・ヴィンチを尊敬していたのだが、この改名は日本との告別の意味があった。こうやって並べてみると、「乳白色の肌」とパリ画壇の絶賛を浴びた才能とは裏腹に、生涯を通じて誤解と中傷の中にいたと気の毒になる。
2002年に「藤田嗣治--異邦人の生涯」(近藤史人)が出て、この謎に包まれた画家の姿に迫った。この労作は、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。一冊の伝記が、一人の歴史的人物の姿を明るく照らしている。

油絵に流麗な黒の輪郭線という日本画の技法を持ち込んだことが藤田の独創だった。そしてパリで絶賛された「乳白色の肌」は、下地であるキャンバスの3重構造などの工夫の所産であった。そしてその秘密は今でも完全には解明されてはいない。日本画と洋画の融合の所産であった。藤田は画業に関してはまことに勤勉だった。どんなときにも絵を描く時間だけは死守していたし、一日の仕事をすべて終えてから騒ぎに繰り出すようにしていた。

「モデルの瞳に感動したら瞳から描け、首筋に感動したら首筋から描くのだ。」

松濤美術館の「藤田嗣治と愛書都市パリ」挿絵を中心とした展覧会をみた。「日本昔噺」、外交官のクローデルの「東方所観」、海軍士官のピエール・ロティの本、「HAIKAI]、ジャン・コクトー四十雀」、、、、、。
様々な人たちの書籍の表紙や中の挿絵を描いたのが藤田嗣治だった。こういったブックワークの仕事を集めている。「本の仕事」に深い愛情を持っていた。

藤田を尊敬する国吉康雄も祖国日本からは理解されない苦悩を背負っているのだが、アメリカで高く評価された国吉と藤田の姿は対照的だ。

「日本に帰って成功したとて日本の中だけの成功で桃太郎だけでは私は満足できません。」ともいう藤田嗣治は、グローバルな世界で活躍するという高い志を果たしたのであるが、その代償はローカルな日本画壇の無理解と迫害であった。