長井実編『自叙益田孝翁伝』(中公文庫)--青年期から壮年期は三井を率いて明治期の日本経済界の重鎮として活躍し、引退後の24年は文化人として重きをなした益田孝の興味深い自叙伝。

長井実編『自叙益田孝翁伝』(中公文庫)を読了。

 三井物産の初代社長。三井財閥を築き上げ、美術品の蒐集家としtれも著名な財界の巨頭の自叙伝。幕末から明治、大正にかけて、時代の出来事や経済人の逸話を中心に闊達に語っている。

佐渡の生まれの益田孝(1848-1938年)は、北辺雄の警備のために佐渡の地役人から抜擢された父(維新後は福沢諭吉の書記)の勤務する函館で英語も学ぶ。父が江戸詰になり、アメリカ公使館になっていた麻布の善福寺でハリスにも接し尊敬している。ハリスが唐人お吉を愛したのは噂であるとかばっている。父が使節の会計役として随行するときに同行しフランスに行く。そして横浜で英語修行の後に幕臣として騎兵隊のリーダー格となる。辞令は江戸城徳川慶喜将軍から直接もらっている。

明治になり経済界で活躍する。海外貿易を志して三井物産を設立し初代社長となり、三井財閥を築きあげる。また日本経済新聞の前身である中外物価新報(後に中外商業新報)を創刊した。

60歳で三井合名理事長であった益田は辞意を表明し、団琢磨を後任者に推薦して66歳で引退する。「老いの身にあまる重荷をおろしては またわかかへる心地こそすれ」

引退後は、数奇者として、茶人として「鈍翁」(蒐集した茶器「鈍太郎」に由来)を名乗り、千利休以来の大茶人と称された。また茶器の蒐集家としても一家をなした。

益田孝は青年期から壮年期は三井を率いて日本経済の重鎮として活躍し、引退後の24年は文化人として重きをなした人物だ。

自叙 益田孝翁伝 (中公文庫)

自叙 益田孝翁伝 (中公文庫)

 

参考

江戸幕府の瓦解。幕府には人物がなかった。薩長には人物がいた。働いている人物の決心が違った。(人物の差)

・貿易ではイギリス人やアメリカ人にま負けない。しかしユダヤ人は細かい面倒な仕事でもよく勉強している。実に恐るべき人間だ。彼らに競争して勝たねばならない。(ユダヤ人恐るべし)

・三菱、古河、久原など天下の金持ちは商売をやったが、みな失敗している。三井は三野村利左衛門などが人間を養成してあったので成功した。(人の三井)

・珠光、紹鴎、利休で完成した茶の精神は藤原定家の歌に尽きている。「見渡せは花も紅葉もなかりける うらのとまやの秋の夕暮」(茶の真髄)

・日本人は、海上、貿易、器械が得意だ。それ以上にあるのは美術である。これは横綱だ。どんな下層社会でも美術心おない者はいない。これは他の国にはない。・日本人の絵は、人物でも何でもことごとく活動しているのが特質。(美術王国)

・日本人はドイツ人にはなれるがイギリス人にはなれない。イギリス人は花を捨てて実を取ることを始終考えている。(イギリス人に学べ)

 

益田の人物評が面白い。大隈。朝吹英二。松方。大山。原敬。原富太郎。桂。服部金太郎。、、。

渋沢栄一:何か困難なことが起こると、上州気質を出してあくまでやる。それに徳望が伴うものだから、どんな困難なことでもやり遂げる。何か新しい仕事をやるときはまず渋沢さんに相談した。

野田宇太郎逓信大臣時代には朝4時頃に起きて客に会うまでの間に書類をすっかり読んでしまっていた。

・山縣公は何ごとにも用心深い。誰に対してもちゃんと物差しを当てていた。

 

健康法にも関心が深い。もともとはひ弱だった。

・健康を保ってきたのは、茶事の他は人の招待に行かないことが原因だ。食事の時刻が決まっており、分量に定めがあるからだ茶人はみんな長生きだ。茶人は何ごとも自分でやる。こまめに体を動かす。懐石では時節のものを食べる。

・食物。楽観。

・外気に触れる。100歳以上の生きた人を調べたら、皆外気に触れていた人であった。

・人間は歩くのがよい。一里半歩くことにしている。朝起きると自分で床を上げる。

・白砂糖はよくない。

 

 

 

「名言との対話」11月28日。桂太郎「天が私を試しているのだ」

桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日1848年1月4日) - 大正2年(1913年10月10日)は、日本武士長州藩士)、陸軍軍人、政治家。

明治末ー大正初めに首相を三度務める。首相在任日数2886日はこれまでで最も長い。2位は佐藤栄作元総理の2798日間。
「弘化(こうか)4年11月28日生まれ。参謀本部にはいり,山県有朋を補佐して陸軍の軍制改革に着手。日清戦争に出征。第3次伊藤内閣などの陸相として軍拡政策を推進した。明治34年第1次桂内閣を組織,以後は、政友会の西園寺公望と交互に政権を担当し桂園時代と呼ばれた。大正2年第3次桂内閣は護憲運動により2ヵ月で総辞職する。

第一次桂内閣では、日英同盟を締結し、日露戦争を遂行した。第二次内閣では韓国を併合、大逆事件で幸德秋水らを死刑に処す。第三次内閣では護憲運動に屈して辞任し、その後に病没する。増上寺で行われた葬儀の会葬には桂内閣を糾弾した民衆も含め数千人が押し寄せた。墓所は生前の桂の遺言により、吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区)に隣接して建立されている。


長州の山縣有朋の直系で出世を果たしたが、山縣は桂は如才がなく世渡りが上手と評しており、後には桂を評価しなかった。徳富蘇峰は人格上の欠点をあげている。気品の欠如した通俗一点張りの代物と手厳しい大阪の売れっ子芸者は、一定の考えはなく情勢に応じて変わる、才子だが日和見主義者とみていた。また、ニコニコ笑って肩をポンとたたくこととで、政治家や経済人を巧みに手なずけることから「ニコポン宰相」と呼ばれている。

「一日に十里の路を行くよりも、十日に十里行くぞ楽しき」と語った桂は、一日一里を着実に歩いたのであろう。世間の評判はあまり芳しくはないが、現実家で手堅くなければ、歴代最長の内閣という記録の達成と実績は残せないはずだ。「天が私を試しているのだ」は長男の訃報に接したときの桂太郎の言葉である。逆境の中で何を信じどうすべきかを熟考している人の言葉だと思う。