山本周五郎『ながい坂』(上巻)を読了。周五郎の自叙伝であり、共感を呼ぶ自己形成小説の絶品。

山本周五郎『ながい坂』(上)(新潮文庫)を読了。

最晩年の『ながい坂』は、人生の長い坂を一歩一歩登っていく主人公の姿に周五郎の理念の影を見出すことができる作品。総ページ数は1000頁を超える長編小説。

志を持つ主人公をめぐる物語だが、登場人物の口を借りて周五郎の特徴ともいうべき人生訓が随所に散りばめられている。

清廉潔白な主人公が泥にまみれながら成長していく物語。志を達成するかどうか、下巻を読みすすめたい。

自叙 益田孝翁伝 (中公文庫)

  「下巻」の文芸評論家・奥野健男の解説から。心して読みたい。

・自分の屈辱の運命をはねのけ、その下積みから這い上がって、まともに生きようとする人間の姿を描きたい。作者は一揆とか暴動とか革命とかいうかたちでなく、圧倒的に強い既成秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正とたたかい、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。

・学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲をを破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しく苦い体験をふまえての人生観である。

・既成秩の内部における復讐と内部からの改革の物語なのだ。

・「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「私の自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。、、、そうです『ながい坂』こそ、山本さんの『徳川家康』であったのです。」(木村久に典)

・日本文学においてこのくらいロマンティシズムを抑えた立身出世小説を、このくらい

社会との関連において綿密に積み重ねられたビュルドウングス・ロマン(自己形成小説)をほかに知らない。

・それはそのまま今日の会社員、公務員などのサラリーマンの世界に通じている。自分のつとめている企業を全宇宙とし、その中で下積みから努力し、認められ責任ある地位につき、それをよりよく勇気をもって改革し、社業の発展に自己の理想と全人生を賭けるサラリーマンの切実な心情をと生き方がここに描かれている。

・『ながい坂』の主人公の生き方は、山本周五郎の作家、売文業者としての生き方、処世術の自叙伝だと思う。こういう細心な生き方をしながら、ついに裏街道や挫折から浮びあがることのできない貧しい庶民のあきらめに似た哀歓を、絶品ともいうべき短編にうたいあげている。

 

「名言との対話」12月3日。津田梅子「何かを始めるのはやさしいが、それを継続するのは難しい。成功させるのはなお難しい」

津田 梅子(つだうめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日)-昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者。岩倉使節団に6歳の梅子は随行し渡米。二度の留学後、1900年に女子英学塾(現・津田塾大学)を設立し、塾長。

梅子と同時に渡米した女性には山川捨松(後の大山捨松)、永井繁子(後の瓜生繁子)がいる。米国滞在中、梅子は英語、ピアノを学び、キリスト教の洗礼を受ける。ラテン語、フランス語、英文学、自然科学、心理学、芸術などを学ぶ。

10数年の後に、帰国するが、儒学の価値観に染まっている日本では、なかなか十分な活躍の場が得られなかった。下田歌子から日本語をまなぶ。伊藤博文と再会し、華族女学校で3年あまり教えるがなじめなかった。

1889年に再び渡米。フィラデルフィアリベラル・アーツ・カレッジで生物学を学ぶ。教授法は師範学校で学ぶ。1892年に帰国後は、華族女学校、明治女学院講師、女子高等師範教授も兼任。1900年には、女子英学塾の設立を申請、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる。健康を損ない、1919年には塾長を辞任。

何かをおもいついて始めるが、いつのまにか霧消。気がつけば、やりっ放しの痕跡だらけ。常に困難が襲ってくるし、自分の側にも様々な事情が降ってくる。だから何ごとも続けるのはまことに難しい。誰の目にも見えるように成功させるには、長い時間をかけてさらに幾多の困難を克服していかねばならない。津田梅子の生涯を眺めると、周囲の無理解と自身の無力感を克服していく難事業であっただろうことがわかる。冒頭の言葉は、その津田梅子の言であるだけに心打たれるものがある。