多摩大アクティブラーニング発表祭(9回目。2学部1研究科。外部2大学。附属高校):史上最高の発表数。

多摩大アクティブラーニング発表祭。

 金アクティブラーニングセンター長:「9回目。55件の発表(史上最高)。全学園・全学的行事(2学部・1研究科。附属高校)。地域・AL・ホームゼミ42件、手塚山大・東京理科大・明治大5件、高大連携8件。地域創造・問題解決・相互成長。教員の成長が学生の成長へ。アクティブラーニング技法=文献研究とフィールドワーク。」

・手塚山大菅学長補佐「6年前から参加。しだいに学会の様相を呈してきた。社会に役立つ人材。研究を教育に生かす。」

・東京経済大山本先生「4年目」

・多摩大目黒松井先生「中高生の発表」

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 今回は、 5つの会場を往き来し、12の発表を聞いた。

第四次産業革命(韓国チェジュ島フォーラム。AI・ロボット化。器械と人間の調和・電子政府・環境問題)」「いちょう団地」(騒音・悪臭・高齢化。2000世帯の500が外国人。ボランティア・ダンス交流・日本語教教室)「インターゼミ多摩学班」(子育て世代対応・シェアリングサービス・若者のニーズ)「上海東海学院サマースクール」(上海見聞)「多摩未来奨学金」(SNS。HANA)「e-Sports」(2024年オリンピック種目へ。日本は15分の一の市場。e-Sports秋葉原)「日本アニメ産業の未来(低年収・長時間労働西東京。インバウンド)」「仙台・オータムフェア(メッセージ収集。目黒区民キャンパス。角田市金沢市。ミッドタウンで紹介)」「八王子コンソーシアム」(サロン)」「多摩未来奨学金」(生業マルシェ。若者奨励金。認知度)「在宅高齢者の食事」(咀嚼・味)「インターゼミアジア班(モンゴル帝国のユーラシア交流史。経済連携による平和と安定。リーダーの思想と視野)」

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 私の全体的な感想は以下。

ヨコヘの広がり

・地域の広がり(大多摩。奈良。仙台。韓国。中国。、、)

・テーマの広がり(アニメ、震災、、、、)

タテへの深まり

・高校生から、大学生、大学院生、院生OB、周辺住民、外部関係者、、

サキへ(先端的テーマ)

e-sports、AI、、、。高校生のiPadミニを使っての発表。

 

 関係した教職員の全体撮影。f:id:k-hisatune:20171209203303j:image

 

 初参加の目黒高校のメンバー。田村校長。f:id:k-hisatune:20171209203318j:image

 

 

 「名言との対話」12月09日。浜田庄司「 願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ」

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年明治27年)12月9日 - 1978年昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家

 栃木県益子の浜田庄司参考館。浜田は30歳で益子に入り20年経って50歳でほぼ完成の域に達した。3万坪の敷地の中に立つ参考館は1977年開館している。益子は浜田の理想の陶郷であった。

陶磁器、漆器、木工、金工、家具、、、など浜田が16歳から生涯にわたって蒐集したあらゆる民芸が存在している。地理的には、日本はもとより、中国、朝鮮、太平洋、中近東、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、、。歴史的には、紀元前から近現代まで。集めた生活工芸品は4千点に及ぶ。これらを人々に参考にしてもらいたいという意味で参考館と名付けた。これらの蒐集品は浜田の仕事の水準を落とさないように監視する役目も持っている。自分を感動させ、自分をはるかに超えているものに浜田は惹かれた。自分に語りかける物や自分の及ばない物に浜田は昂奮した。この参考館は訪問者や芸術家が未来を準備すること助けるためにある。浜田の方法は、「相手に聞く。土に聞き、釉に聞き、火に聞く」であった。

 浜田庄司東京高等学校窯業科で河寛次郎と出会う。卒業後は河井のいた京都市立陶磁器試験場に就職する。知り合ったバーナード・リーチに誘われ、3年間イギリスのコーンウェルに滞在する。関東大震災で混乱の中、日本に帰り、河井宅で過ごす。当時の河井寛次郎は方向感を失っていた。京都で知り合った柳宗悦河井寛次郎浜田庄司の3人組は日本の美の新しい方向を見いだした。 英国で田舎暮らしを知った浜田は、栃木県の益子に居を構え、作家活動に入る。益子焼きは1852年大塚啓三郎によって始められた。まだ歴史は浅い。「土は粘着性と可塑性(肉体と骨格)を持ち、火に強い必要がある。一番単純な土が最良だ。」

片足を都会に置き、必要な時はいつでも都会に出て共同体の一翼を担う。そういう田舎暮らしを楽しむ生活にあこがれた。田舎に家を持ち、しかも都会の活動から切り離されずにいられる益子を選んだ。寒い季節は焼き物の伝統のある沖縄(壺屋)に、暖かい時期は益子というように往ったり来たりを考えた。健やかさと正しさを大事に考えた。そのために焼き物の伝統が生き続けている田舎に仕事を場所を探したのだ。

最初絵描きになろうと考えていた浜田は15歳で「用の美」の工芸を目指すことになった。隣に住む木村荘八の蔵書の中からルノワールの「美術志望者が少しでも工芸に進めば工芸の質が向上する」という言葉を見つけたのである。「民芸」という言葉は、1925年頃に生まれた。当時浜田は31歳あたりだ。浜田は83歳で没しているから、70年近くの年月を工芸に励んだ。その成果は、悠々たる大きさ、堂々とした形姿、地味ながらこくのある釉色、生き生きとした絵付け、温かく親しみに満ちた味わい、、という作品に結実している。志を早く立てることの成果であり、そして長く仕事をした成果でもある。「私の陶器の仕事は、京都で見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と浜田は人生を総括している。

「良い土から悪い物をつくるよりも、劣った土で良い仕事をする方を選ぶ」という浜田庄司は「 願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ」というそのままの人生を送った。願とは志のことだ。大きく高い志を立てて、自分に妥協せず、方向感を大切に歩むことが大切だであることを教えてくれる。