NPO法人知的生産の技術研究会-九州で立ち上げの記念講演。

福岡。

NPO法人知的生産の技術研究会-九州の立ち上げの会で記念講演を行なった。博多駅前の福岡商工会議所で17時から1時間45分。

講演テーマは「図で考えれば、世界が見える」。

 

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 名刺交換した方々からみると、九州全域から見えているようだ。

福岡県:中央区、南区、博多区春日市北九州市

熊本県玉名郡大分県別府市、 鹿児島県鹿児島市長崎県長崎市長崎県島原市、、、、。

 

代表は、ピエトロの高橋社長。副代表2人、事務局長1人、幹事長1人、幹事7人、会計1人、監査1人、、、。

 

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終了後、ほとんどの人が宴会に参加。楽しい懇親。博多は学生時代を過ごしたホームグラウンドなので懐かしい。

終了後、中津へ。

 

 

「名言との対話」。12月10日。小田野直武「下手ですが、断りきれないので描きました…」

 小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月10日 - 安永9年5月17日1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。

小田野直武の名と絵画は、秋田の角館で聞き、観たことがある。どうして秋田の地で蘭画が栄えたのか、不思議に思ったことを思い出す。小田野直武は秋田藩の角館で生まれ狩野派の絵画を学んでいたが、1773年に銅山開発(長崎のオランダ貿易では銅が用いられていた。半分は秋田藩)のために招聘された平賀源内と出会い、西洋画の理論と手法(遠近法、陰影法)を教えられる。線よりも色彩や明暗によって自然の形態を正しく表現すべきであるという考え方である。

それが縁で25歳で江戸に派遣され、8ヶ月後には杉田玄白らが刊行した「解体新書」の挿絵を任されるまでになる。直武は毛筆によって挿絵を丹念に模写していった。玄白42歳、直武26歳であった。1770年には徳川吉宗が洋書の解禁を断行した蘭学の風が、医学、物産、そして絵画の世界にも吹いていた。

直武は西洋と東洋の美術の融合した蘭画を生み出した。その画風は、秋田藩主の佐竹燭山(1748年生)や角館城代の佐竹義躬(1749年生)らへ波及し、秋田蘭画と呼ばれる画風となった。当世の絵画は写実性にかけていた。調度品としての観賞性と博物学的な西洋式写実性(遠近法)を融合させたのである。この秋田蘭画は後に銅版画や油彩画を描いた司馬江漢に引き継がれた。

秋田蘭画は近代の夜明けのひとときの光芒を放ったのである。歴史の中で忘れられていたが、日本画家・平福百穂の「日本洋画の曙光」(岩波新書)で評価された。近代美術の始まり、日本の洋風画のさきがけという位置づけになった。

1779年には藩主から遠慮(謹慎)を命じられ、また病を得て帰郷し、翌年に32歳で亡くなっている。君公に直諫したための沙汰であった。内容は藩の財政、あるいは君公の御行跡に関することであったといわれている。直武の没した翌日に沙汰が解け出府せよとのご沙汰があり、解けたことを知った父は残念のあまり発作的に精神の異常をきたしたという。

前野良沢杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業は、図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。旧知の源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなる。冒頭の言葉は、直武は『解体新書』の序文に書いた言葉である。