山本周五郎『ながい坂』(下)を読了。

 山本周五郎が自身の自叙伝と言っているように、下積みから一歩一歩、ながい坂を登っていく主人公の物語だ。それは筆一本で這い上がってきた周五郎の人生である。直木賞を始め、あらゆる賞を辞退して、読者のみに向って厖大な仕事をなした山本周五郎という作家のライフワークであろう。

ながい坂 (下巻) (新潮文庫)

ながい坂 (下巻) (新潮文庫)

 

 奥野健男が巻末の「解説」で次のように述べている。

「作者は一揆とか暴動とか革命とか言うかたちで爆、圧倒的に強い規制秩序の中で、一歩一歩努力し上がってきて、冷静に自分の場所を把握し、賢明に用心深くふるまいながら、自己の許す範囲で不正と戦い、決して妥協せず、世の中をじりじりと変化させてゆく、不屈で持続的な、強い人間を描こうと志す。」

 「おのれの来し方の総決算として『ながい坂』にとりかかりました。「わたしの自叙伝として書くのだ」とたいへんな意気込みでした。」

「学歴もないため下積みの大衆作家として純文壇から永年軽蔑されてきた自分が、屈辱に耐えながら勉強し、努力し、ようやく実力によって因襲を破って純文壇からも作家として認められるようになったという自己の苦しくにがい体験をふまえての人生観である。」

 

以下、私が共感する主人公の三浦主水主の考えや言葉。奥野健男のいうように、著者の人生観だと思う。

人間はその分に応じて働くのが当然である。

 人も世間も簡単ではない、善悪と悪意、潔癖と汚濁、勇気と臆病、貞節と不貞、その他もろもろの相反するものの総合が人間の実体なんだ、世の中はそういう人間の離合相剋によって動いてゆくのだし、眼の前にある状態だけで善悪の判断は出来ない。

 「人間のすることに、むだなものは一つもない」と主水正は云った。「眼に見える事だけを見ると、ばかげてイタリ徒労だと思えるものも、それを繰返し、やり直し、つみかさねて行くことで、人間でなければ出来ない大きな、いや、値打ちのある仕事が作りあげられるものだ、、、」「人間は生まれてきてなにごとかをし、そして死んでゆく、だがその人間のしたこと、しようと心がけたことは残る」

 いちばん大切なのは、その時ばったりとみえることのなかで、人間がどれほど心をうちこみ、本気で何かをしようとしたかしないか、ということじゃあないか、、」

 人間はどこまでも人間であ利。弱さや欠点を持たない者はいない。ただ自分に与えられた職に責任を感じ、その職能を果たすために努力するかしないか、というところに差ができてくるだけだ。

 しかし、今日まで自分は自分の坂を登ってきたのだ、と彼は思った。」「そして登りつめたいま、俺の前にはもっと険しく、さらに長い坂がのしかかっている」と主水正はまた呟いた、「そして俺は、死ぬまで、その坂を登り続けなければならないだろう」

 

 

「名言との対話」12月11日。東海林太郎「マイク一本四方が私の道場です。大劇場であろうとキャバレーの舞台であろうと変わりません」

東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年明治31年)12月11日 - 1972年昭和47年)10月4日)は、日本歌手

 東海林太郎「赤城の子守歌」が、1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、歌手としての地位を確立した。その後の「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示している戦時中は「あゝ草枕幾度ぞ」や「琵琶湖哀歌」、「戦友の遺骨を抱いて」などを吹き込んでいる。戦後は、1963年任意団体(当時)日本歌手協会初代会長に就任。空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演するなどして脚光を浴びた。

ロイド眼鏡燕尾服を着用し直立不動のスタイルは剣豪宮本武蔵を彷彿させた。「一唱民楽」の言葉のように、「歌は民のため」という信念を持ち、常に真剣勝負の姿の歌唱魂は、激動の昭和を生き抜いた時代精神を表している。最後の言葉は「1時間ばかり昼寝をします。」で、そのまま永遠の眠りについた。 葬儀は史上初めての「音楽葬」だった。東海林太郎が精進する歌道においては、舞台は道場であったのだ。