品川で大学院教授会。竹橋の東京国立近代美術館。九段でインターゼミ。

「副学長日誌・志塾の風」171216

13時から品川キャンパスにて大学院教授会。

・審議承認:2018年度事業計画。2018年度時間割・科目名称変更。規程見直し。CRSプログラム終了証明証。私費留学減免審査。2018年度学年暦再検討・教授会・運営委員会日程。

・報告事項:教務分科会。入試・広報分科会。院生分科会。、、、。

 16時:九段サテライトにてインターゼミ。

・杉田学部長と一緒に目黒高校の松井先生と面談

・杉田学部長と金先生と、新入試への対応を協議:学部生の教育効果との関連でたたき案ができた。

 午後は、東京国立近代美術館で開催中の「熊谷守一 生きるよろこび」展をみた。

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 「名言との対話」。12月16日。島木赤彦「歌の境地は山、川であり、材料は雲・樹・鳥である」

島木 赤彦(しまき あかひこ[1]1876年明治9年)12月16日 - 1926年大正15年)3月27日)は、明治・大正時代のアララギ派歌人

諏訪湖に臨む地に諏訪湖博物館と並置されて島木赤彦記念館が建っている。平成5年に開館したが、設計者は伊東豊雄である。「湖面に沿って緩やかに湾曲する細長い平面を持ち、湖上からの姿は大きな船を逆さまにしたように見えるかもしれない。曲面を多用して軽快で優雅な空間を作り出そうとした結果である」」と設計を語っている。この伊東豊雄は、仙台のメディアテークの設計者でもあり、優れた作品を作り続ける建築家だ。

赤彦は日本の短歌の本流の一つ「アララギ」の編集に生涯をかけたアララギ派歌人だが、長く信州の教育の大きな影響を与えた教育者であり、そして「万葉集」をライフワークとした優れた研究者であり、また百篇に及ぶ童謡を書いた詩人でもある。

県の尋常師範学校を卒業し、教育者として出発した赤彦は33歳で尋常高等小学校の校長、36歳、諏訪郡視学と順調に仕事をする。一方で31歳で南信日日新聞、長野新聞の歌壇の選者にも選ばれているように、歌でも知られていた。雑誌「アララギ」を7歳年上の伊藤左千夫と創始したが、左千夫の死去で「アララギ」が存亡の危機に落ち入ったとき、郡視学という要職を投げうって上京し、それ以降活発に活動を開始する。

39歳、第二歌集「切火」。40歳、アララギを1000部にする(赤彦と同郷の岩波茂雄岩波書店が「アララギ」の発行を引き受けてくれた)。41歳、信濃教育会「信濃教育」編集主任。44歳、第三歌集「氷魚」、童謡を作り始める。45歳、斎藤茂吉と交流。46歳、「赤彦童謡集」、「万葉集燈」。47歳、「万葉集僻案抄」、「第二赤彦童謡集」。48歳、第四歌集「太虚集」。上京してほんの10年余であるが、雑誌編集の責任者という実務と併行して創作に余念のない姿を感じる。50歳で没したが、長く生きたら歌史にもっと大きな重みをもって存在していただろう。

教育実践者としては、作文の言文一致や写生主義を図画、つづりかた教育にいれる。理科では、継続観察や植物、鉱物の標本採集や登山など、形式的な教育から創造的教育への流れをつくっている。写真をみると、本籍は歌人というより、信念固き教育者という風貌である。

赤彦は、柿人、柿の村人などの歌名を使っていたし、住居は「柿蔭山房」とも称していた。いずれも柿の赤が好きだったことからつけた名前である。37歳から赤彦という名前で通す。

近代短歌の歴史は、正岡子規根岸短歌会から始まるが、馬酔木(あしび)によった伊藤左千夫をその流れを引き継ぎ、アララギを舞台に、斎藤茂吉土屋文明、中村憲吉、石原純、釈沼空などの多彩な歌人が出て、この派が重きをなしていく。その中心にいたのが島木赤彦だった。アララギは、ブナ科の常緑樹・イチイの別名である。

後に書簡類を整理した矢崎孟伯氏によれば、書簡数が非常に多く一千通に近い。交友人関係がひろかったことを示している。あげられた名前は、徳富蘇峰森林太郎(鴎外)、阿部次郎、佐々木信綱、岩波茂雄小宮豊隆田辺元安部能成菊池寛、西田幾太郎、倉田百三金田一京助、与謝野寛、、、、。山国信州人の律義さと教育者としての誠実さをもって、几帳面に多くの人に接した人生だった。

 隣室に書よむ子らの声きけば 心に沁みて生きたかりけり、などいい歌が多いのだが、赤彦は歌論も活発に論じ、「歌の境地は山、川であり、材料は雲・樹・鳥であるが、現れる所は、作者心霊の機微である」と説明している。悠久の大地を見つめ、その中で生きる動植物などを材料にして、自分の心を歌う。それが歌である。